InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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昨日は病院尽くしの日

何て日だ。朝の満員電車内で、目的駅に着くたった1分前にパニック発作を起こす。その後救護室(実はただの駅事務室)に担ぎ込まれるも全く過呼吸が止まらず。それどころか手が変な形で固まったままで動かせなくなる。足も痺れる。挙句、救急車で病院にまで運ばれて点滴だの動脈採血だのをされ、「身体のほうは全く問題ないので(中略)、精神科にかかることをお勧めします」と告げられる。どうせだからと精神科の初診を入れてみる。するととりあえず鬱病との診断を食らい、パキシルを処方される。その後も心電図を記録され、血を採られ、頭部CTを撮られ、5日後にもう一回来いとのこと。鬱病はないんじゃないかと思うのだが、ベック鬱病指標をやる度ごとに「重症の鬱病」と出るのは確かである。(でもかつて知人にやらせてみた経験では、鬱病をかすりもしなかった奴など今まで一人しかいない。)帰路は電車で強行。昼間のため混んでおらず、パニック発作は来襲しなかった。けれども明日またぶっ倒れるかもしれないと思うと気が滅入る。どこまで惨めな奴なんだ。

随想[死に関して]

死のうと望む者は、生きようと願いながらも生きられない者に対して責めを負わない。富める者が貧者の貧困それ自体に対して何ら責めを負わないのと同じである。罪責の念を感じることは可能だが、それを外部から強制することはできない。「他者の死は私の生から断絶している」。死が不可逆的で回復不可能だということは、死を言語や思考によって弄ぶことを禁じはしないであろう。事実、死は哲学の中心的課題であり続けてきた。死は決して(死者本人によって)体験され得ないのにも関わらずである。死を思考から消去しても生きることはできる。死を常に見据える者だけが豊かな人生を送れるなどとは、自分が他人よりも優越していると思い込みたい人間の戯言ではないか。(「私」の)死は繰り返されない。だから死を知らずとも、生きることには何ら支障がないのだ。見えもしない素粒子なぞ研究して何になるとよく問われるが、確かに別に何にもならないのであり、素粒子を知らずにいても何の問題も起こらないであろう。知っていることは優越を保証するわけではない。単なる好事家である。そう、死だって"どうでもいい"のだ。死に関する思考は他者に対して責任を負うことを強要せず、他者に対する優越も意味しない。それは全く「何でもない」。(けれども僕は"好事家"をやめられない。)

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シンポジウム: 臨床哲学とは何か

第12回臨床哲学シンポジウム『臨床哲学とは何か』に行ってみた。
symposium
(今よく見たら鈴木氏がカメラ目線だ)
シンポジストは木村敏と鷲田清一、コメンテーターは野家啓一・鈴木國文・兼本浩祐・出口康夫、司会は内海健と谷徹という(日曜は常に引きこもりな僕を家から引きずり出す威力を持つほどに)錚々たる顔ぶれである。
以下、覚え書き。

<臨床の哲学>
・ノエシスを決定/限定するノエシス=メタノエシス
・集団(共同作業)において他者のメタノエシスが自分の行為を方向付ける→作為体験のような
・また逆に、自らのメタノエシスが他者の行為を方向付けるときは自分が他者を操作しているような
・垂直のあいだ(主体内部、計量的同時性?) vs. 水平のあいだ(間主体的、メタノエシス)
・リアリティ(←res[la]=物) vs. アクチュアリティ(←actio[la]=行為)
・離人症においては、リアリティが保持されアクチュアリティが喪失される
・離人症=depersonalizationのpersonは、人ではなく自己である。離人症は自己論的差異の表出
・自己論的差異: リアリティ="もの"的自己とアクチュアリティ="こと"的自己の差異
・これらの下にあるのが自他未分のメタノエシス的自己であり、これが物=自己に出会う現実に照らし出されると感覚としての自己が表れる。自己は対象化可能な"物"ではなく「自己クオリティIch-qualität」という感覚。
・別の言い方では、自己とは自分の身体が自然の根源的自発性を無媒介的に感じ取る自己触発の感覚。
・症状論的エポケー: 症状自体に目を瞑ること (無視ではなく、棚上げするような)
・ヴァイツゼッカーの「医学への主観の導入」、診断へ(医師の)自己感覚を関与させる
・自己感覚の例がプレコクス感(Rümke): 統合失調症者を目前にしたときのよそよそしさ、接近阻止; 医師側の奇異感Befremdung⇔患者側の疎外感Entfremdung[ブランケンブルク]。患者はあらゆる人間に対してプレコクス感を感じている。
・自己の成立不全→作為体験、筒抜け体験
・自己とは述語的場所としての自覚の場で、中動相(能動でも受動でもない相)が生起する場所
・ゾーエーzoéは普遍的生命(生命それ自身で不死、根源的自発性、生死一如)であり、そこから個別化された生命=ビオスbios(可死的、受け皿としての生命)が生まれる。
・動物ではビオスは人間ほど個別化されておらず、人間では個別的自己が成立しているために精神病理現象が現れる。

<哲学の臨床>
・臨床: 現場に出掛けて行く; その場所の言葉で、語りながらその権利根拠を問う
・「どこ=どういう地政学的観点から語り出すか」現場で語るということは、金銭的利益等の政治性を無視できない
・哲学は知の根拠を問う基礎学である、だが今の凋落ぶりは一体...
・生は確実な知をもとにしているわけではない。そこには別の確かさ(→最上の確かさ、政治にも似た価値の遠近法)がある
・技術の技術である哲学; 力としての知
・論証されていないものに身を預けること
・哲学の臨床: ファシリテーションと哲学を汲み取ること(発明でなく発見、具体的事物の底から抽象原理へ)
・popular sentimentからpublic opinionへの転換、臨床とは言説が生成する場所
・現象学とは徴候知を記述する作業
・「哲学に独自の思考法はない、あるのは強度の違いだけだ」(戸田山)。強度の違い→いつもの問題を少し過剰に考えること
・因みに「哲学の臨床」「臨床の哲学」という各々のタイトルは偶然こうなったのであって、狙ったわけではなかったらしい。

<コメント/質問/討論>
・非ピラミッド型知のモデル: 風船自転車型モデル(知=風船、臨床の場=自転車)。根拠は動的で、堅固でなくとも現実に作動している。知と臨床の間に固定的な構造がない。実践の産物。
・"知情意": 情念+意志+共通感覚という融合体。情意を含めた複合的な重み
・確実性/現実性は被決定性/被拘束性を表す?
・ドッキリカメラの比喩: ドッキリだと気付いていない時点の自己=m0とし、気付いた後をm1とする。同様に時間経過と共にmnとおいていく。m1ですぐ変化に適応できるのが正常、適応できず不自然なのが境界例、変化を無視し周囲を当惑させるのが統合失調症?
・例えばm1にいてm0に目を向けるのか、m2か、これがante/intra/post festumのことでないか
・m0以前(「私」以前)は神話。mnの果てには死。([現実の諸相])
・ラカンのSchéma RとSchéma I。台形をなすのが正常、崩れた隙間に諸症状が現れる
・支持/指示的精神療法(不安から目を背けさせる) vs. 精神分析(自我の底を抜く、破壊的): 優劣は論じられず、どの場面でどれを使うかが重要
・私⇔他者や正常⇔異常などが弁証法的関係にあることを自覚したのが"近代"である。それがほつれ始めたところに精神医学が生まれた
・原理が崩れても個々のスキル自体はある程度持ちこたえる(自転車が止まっても風船は割れない)。何故か?
・診断とは人格空間への位置づけか(存在可能性のひとつか欠損か)? →personは人格というニュアンスでないからあまり関係はない。
・「私」という現象は脳をはみ出たところにしか存在しない
・入っていく生命=ゾーエーを境界において感じ取るのが身体、ゾーエー自体でなく入ってくること自体が身体感覚
・哲学ゾンビに自己はない? 離人症はクオリアを喪失した状態?
・哲学には他の学問にあるような領域の自己限定がない→最もアマチュアに近い→市民の参加
・臨床→場(agora)を開くということ
・自明性を学び捨てることで自明性をとりなおす
・超越論的視点(全体性の思考、"世界の外から")は困難だし、暴力的; セレンディピティに現れる全体性
・野家「哲学こそ学問の自己吟味を最もしてこなかったのではないか?」鷲田「ノエシス(野家死す)...!」(※創作ではない)

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断片

毎朝、嫌な夢から目を醒ます。どんな夢かは全く覚えていない。夢の湿気だけを引き摺って一日が始まる。生まれてこのかた、朝が好きだったためしなど一度たりともない。
かつて住んでいた街がすっかり変わってしまったと信じていたのに、本当は何も変わっていないことに気付いたときのむず痒い違和感。凍結する気配さえない道路の脇に「路面凍結に注意」という看板があって、それがどうしようもなく可笑しくてにやにや笑いを浮かべながら家路につくこと。「ヨーロッパ」という字面と響きが突如として奇妙なものに感じられ、単語の意味は恐ろしいほど正確に認識しつつも"ヨーロッパ"という実在から単語が遊離していくのを見ているようなもどかしさ。
ホームに電車が滑り込んでくるとき、高所から真下を見下ろすとき、その先へ向かって飛び込んでゆきたくなる衝動に駆られる。死にたいのではなく、ただそこへ吸い込まれていくという錯覚が幼少の頃からある。今いる場所に立ち続けるのは励起状態にある電子のようでどこかしら収まりが悪い。きっと重力に任せて落ちていくのは清々しいだろうと考えてみる。
毎朝ホームで列車を待ちながら、執拗に脳内シミュレーションを行っている。…列車が来た! ホーム端の青色照明を横目で見る。5m程度に列車が近付いた時を見計らい、僕は電車待ちの列を飛び出して線路に身を投げる。非常停止ボタンが押される。車両の頭はもう血糊でぐっしょりと汚れている。肉塊、骨片、血飛沫。列車は何時間も止まり、沿線の列車も止まり、通勤客と死体回収にあたる作業員と警官、何十万もの人に呪詛されて僕は死んでいる。…それでも現在に至るまで何も起こらなかったし、恐らくこれからも起こることはないけれど。
身体と周囲との境界線が融解しているような感覚。多分、自己の輪郭などいつだって曖昧なものなのだ。ぼんやりと"その辺り"では"自己"の密度が高く、他所では低いというだけで、その自己-他者或いは自身-環境という連続スペクトルにどんな区切りを与えるかということだけが問題なのかもしれない。志向性が存在すれば、ふたつの事物は明瞭な境界を失い、グラデーションを描く。そこに境界線を見出すのはマッハ・バンドの錯視みたいなものなのだろう……仮説とさえ呼べない思い付きだが、もう少し突き詰めれば形にはなるかもしれない。
毒にも薬にもならない思考ばかりが頭の中をのたうち回っては消えていくことを繰り返している。自身が発した問いから、「だから何なの?バカなの?死ぬの?」という嘲りだけが僕に回帰する。常に思考してはいる。だがそれは何らの結論も与えない。
何故だ。何も考えられない。

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ヘリコプターの話

僕の家にも一応テレビはあるが、時折襲来する親のためにだけ存在しているようなもので、僕自身はほぼテレビを見ない。今日はなぜか思い立ってテレビをつけてみた。そうしたら「恋とスフレと娘と私」(で合ってるのだろうか)とかいう映画をやっているところであった。前後がどんな話なのかは知らないが、ちょうど―もしかしたら全編通じてそうなのかもしれないが―母親が娘の結婚相手を探そうと躍起になっている場面で、過干渉はやめろと忠告を受けているのにも関わらず母親にやめる気配はなかった。彼女の言い分を要約すれば「娘のためを思って」ということである。「娘のためを思って」娘に隠れて出会い系サイトで相手を探し、「娘のためを思って」候補者の"面接"までし、「娘のためを思って」面接に合格した男と"偶然"出逢うよう小細工をする。ったくなんて「娘思い」なことでしょう。感動的ですねえ。

彼女のような人間は「相手のためを思って」という"善意"に凝り固まっているために、他者の主張を受け容れる余裕はない。たとえそれが"思っている"相手自身だったとしてもである。自分の行動は善意から出たものだ。善は正しい。故に私も正しい。裏を返せば、私に反対する者は全て間違っている! 親どもがよく宣う言葉に「あなたのためを思うことの何がいけないの」というものがある。勝手に思い、くれたければ忠告をくれりゃいいのだ。だが彼らの"自分は絶対正しい"観は、土石流のように「あなた」の意志を押し流し、埋め尽くし、死滅させる。

どうせこの映画のラストでは「誤解し合っていた母娘が理解し合い、娘は素晴らしい結婚相手と幸せに暮らしました」的なハッピーエンドが描かれるのだろうなあと思うと、更に怒りが増幅していく。過干渉の親を持ち、"僕のためを思った"母に危うく永住権まで剥奪されかけた僕としては、子供を殴打する親よりも精神的虐待を加える親の方が遥かに身近な問題である。彼らは他者から非難されにくい。当然ながら「子のためを思う」真摯な姿勢に誰もが感心せざるを得ないだろうからだ。反対している間は独裁的であれど、服従した瞬間手の平を返したように"慈愛溢れる親"に豹変するというのも、子自身これを"虐待"としていいものか躊躇わせる理由になっている。子を暴行する親や育児放棄する親は法的に制裁される。けれども過干渉を禁じる法律も政令も存在しない。干渉と過干渉の線引きは難しい。それは容易に帰結する事実だが、どうすればいいのかは誰にも解らない。

過干渉の親はなべて"子離れできない親"である。当り前のことだ。そして彼らは子が自我を主張するようになると子が離れていくことを恐れ、自らの庇護のもとでなければ子が生きられないことを示そうとする。どうするのか。ひたすら子を貶めていくのである。「お前に一体何ができる」「それで生きていけると思ってる?」「思い上がるな」。何を成し遂げようとも彼らは「お前は無能だ」と捲し立て続ける。親から隔離しない限り、子にこれから逃れる術はない。

かつて、連日無能だ無能だと言われ続けた僕はそのうち「自分は本当に何も出来ないゴミ以下の存在なのだ」と確信するようになっていった。数度の自殺未遂。今でも希死念慮と自傷癖と無力感とを引き摺っている。瀉血した血痕を目ざとく見付けて僕を詰り始めた親に、「何故こんなことをしなきゃならないのか判るか」と問うてみたことがある。「判るわけないでしょ!」という有難くて涙が出そうなお答えであった。その時、今後二度と親に自分の胸の内など話すまいと心に誓った。
(何度も何度もやめてくれと訴えたのだ。僕が黙っていたのなら「判るわけない」でも構わない。この間会ったとき親は、小さい頃水泳教室に通わせなかったことや天文学の本を買い与えたことが、僕がひねくれちまった理由なのではないかと悔いていた。実におめでたい頭である。)

過保護・過干渉の親のことを「ヘリコプター・ペアレント」というそうだ。的確すぎるネーミングじゃないか。常に上空に待機しており、"異常"を察すると急降下してくる。強風でこっちは吹っ飛ばされそうだというのに。
やっぱりテレビなんか見るもんじゃないと思いながら僕はテレビを消した。

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零ベクトル

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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