InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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二日酔い

人生はクソゲーだというのは,どんなに同意しても同意しきれない主張である.かといってつまらないかというと,まあまあ面白みはある.イージーモード(に見える)ひとがたくさんいる中でハードモードな自分を見て,なんてクソゲーだ,と言っている節はあるだろう.それに一般的に言えばハッピーなイベントよりもそうでないことの方が起こりがちであり,当たりのなかなか出ないパチンコのような(パチンコをやったことがないので適切な比喩かはわからない)「クソゲー」感がある.よくよく考えたら,ゲーム自体あまりした経験がないのでひとが「クソゲー」と言う場合どんな気持ちを込めているのかもわからなかった.専門外の比喩はやめましょうね.
人生の何がそんなに嫌なのか,端的に言えば「生きるのがうまくないので人生自体が嫌い」というところに集約されるような気がしている.要するに「生きる才能がない」.プログラミングの才能がないひとが頑張ってプログラミングを勉強しようとしても,才能がなくて概念を理解できず,自分でコードを書くことができないから嫌になるのと本質的には似ている.もちろんこれは僕に限って正しい話であろう.嫌な出来事が続いて人生が嫌になるひともいるだろうし,毎日同じことの繰り返しばかりで人生に飽きてしまったひともいるはずである.人生が嫌になったわけではないけど自殺を選ぶひともきっと大勢いる.でも僕の場合を考えたら,嫌な出来事が取り除かれたって僕は人生やめたいし,毎日は変化があって別に単調ではない.いま対症療法を施されても,「今後生きなければならない」という条件が途轍もない拒否感を喚起する.
誰もが,夢を見ている.どんなに普通のひとも,どんなに優秀な医師も,みんな一種の夢の中で生きている.僕が見ているのは悪夢には違いないのだろうが,「治療」を受けてその夢を見なくなったとしても,麻酔薬か睡眠薬を打たれて別の夢を見せられるだけの話なのだ.新たな夢が悪夢ではないことなど,誰にも保証できない.
「生きるのをうまくする」ためには,きっと表層だけをなぞることが重要だ.ひとの言動の裏を読もうとすると,コミュニケーションがしづらくなる.ひとの言動は基本額面通り受け取り,ある程度「わかりやすい裏」を読めば,それだけで円滑なコミュニケーションは成立する.「裏の裏」を読もうとすればぎこちなくなってしまう.読んだ「裏の裏」が正しかったかどうかなんて,どうせわかるわけないのだから.
世界を,生活を,ほとんどは疑問を持たずに額面通り受け入れればいい.少し面倒な疑問が首をもたげるときは,「わかりやすい裏」だけ読めばいい.賢しそうなふりをして「裏の裏」を読もうとしたって,答えなどどこにもあるわけないのだ.これでいいのか,あれで合っているのかといちいち不安になってしまう.そんな不安にとらわれて立ち止まってばかりでは,なめらかに生きられない.
全部額面通りに受け取るひと,ある程度の裏を読んですんなりとことをこなすひと,裏を読みすぎて何もできなくなるひとの3種類の人間がいる.裏を読むタイプのひとに「気にするな,相手はそういう意味で言ったんじゃない,考えすぎだ」とアドバイスしたとしても,そうですねといってすぐ裏を読む癖を直すだろうか.それは一種の習慣であり,生活スタイルのようなものである.もはや本人の意思では変化させようがない.生活に,思考に,あまりにも自然に染み付いてしまっているからだ.本人は裏を読む癖をやめたいと思っているかもしれない.だが,一度裏を読む癖がついたら,読まずにいることは非常に困難である.しかもすんなりことをこなすには,ある程度は読まなければならないときた.いつもいつも深読みしてしまうひとは,ある程度ってどのくらいなんだろうと悩むであろう.どのくらいかわかったとしても,ある種の化学反応が途中の段階で止めることができないように,深読みの谷へと転がり落ちていってしまうのは想像に難くない.要するに,深読みを始めたら円滑で双方にとって快適なコミュニケーションは諦めるしかないのである.
生存も同じこと.世界の「裏の裏を読む」癖がついてしまったら,今更読むなというのは単なるきれいごとなのだ.読まない,それができれば話は簡単なんですよ.問題は不可逆的に読んでしまうことなんですよ.
「深読みする癖」のあるひとは「生存がうまくない」.生存の才能とは,すべてを額面通りに受け取りつつ適切なところで少しだけ裏を読む能力である.死にたいひとがみな「生存の才能」がないわけではない.目下道を塞いでいる問題を取り除きさえすれば,なめらかに生きていけるひとは多い.問題とは,たとえば病気であり,たとえば成績不振であり,たとえば恋人がなかなかできないことである.生きる才能がちゃんとあるのなら,生きないのはもったいないし,たぶん本人も問題さえ消え去れば生きていたいのではないだろうか.その問題が解決不能に思えるから,もう前に進めないと思ってしまうのである.もちろんほんとうに解決不能な問題もあるだろうが,それは本人に生きる才能がないことを意味しない.
それなのに僕ときたら,生きる才能が絶望的に失われている.そのうえ,人生に対してなんの執着もない.とすると,人生を終了するしかないですねえ.アセトアルデヒド脱水素酵素が少しでもあるひとは,酒を飲む練習をすれば飲めるようになる.けれど全くないひとは,いくら飲もうが身体が絶対に受け付けないし,命の危険を伴う.酒を飲むことは完全に諦めなければならない.僕はさっぱりと生存を諦めました.どんなに周りが「美味しいぞ」としつこく勧めてこようとも,飲めないものは飲めません.だからもう,僕に生存を勧めるのはやめろ.全て無駄足に終わるだけだ.
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