InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

CURRENT MOON

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言葉はそれ以上でも以下でもない言葉そのもの

ある作品の作者の人格は、その作品の価値に影響を及ぼさない。話者の人格は、語られる言葉の正当性を些かも揺るがさない。当り前の話である。モーツァルトは下品で低俗な人間だったというが、その和音の操り方は類を見ない素晴らしさだ(とはいえ、僕自身はモーツァルトの作風が好みではないのだけれど)。音楽ならまだ理解されよう。ところが、人生論・忠言・哲学…の領域になるとそうはいかないらしい。例えばビル・ゲイツが清貧の思想を説く。或いは常習窃盗犯が遵法的生き方を賛美する。普通彼らは「何言ってやがる、大富豪のくせに/泥棒のくせに」と全く相手にされないのであろうが、そうだとしても発せられた言葉の意味・内容は話者や筆者からは独立している。話者の人格が影響するのは話者自身の(その言葉に対する)誠実さであり、虚言を弄しているかいないかの判断であり、感じられる言葉の"重み"なるもの(何だこれ?)であったりする。しかしそれは断じて言葉自身の内容とは無関係なのだ。

以前何かの本で読んでどの本だったか忘れてしまったが、面白い実験の話が載っていた。死刑反対の弁論を収めたテープをAとBの二組の被験者に聴かせる。Aグループには、話者が"自身が何度も死刑判決を出したのち熟慮して死刑反対に転じたベテラン裁判官"であると伝え、Bグループには"審理中の凶悪連続殺人犯で、今まで一切反省の色を見せたこともない"と伝える。当然ながらテープは全く同じもの。そして主張に賛同できるかを問う。容易に想像できることだが、Aグループのほうが賛同率は圧倒的に高かった。しかし殺人犯が言ったからといって、その弁論の内容は否定されてもよいものだろうか? 数学で赤点ばかり取っている生徒がある日突然テストを完答したとしても、教師はやはり満点を与えなければならない。それと同じことだというのに、「お前にそれを語る資格はない!」と喚き散らす御仁の多さときたら。
今まで買って失敗したなあと思う本はそれほど多くはないのだが、そのうちに樋口裕一の"頭のいい人、悪い人"シリーズがある。確かブックオフで105円だったので2冊買ったが、とうにまたブックオフに売ってしまった(合わせて10円くらいではなかったろうか)。その本にも"たかがそれごときの不幸を背負い込んだくらいで不幸面するんじゃねえ"といった主旨の記述があったような覚えがある。ああこいつも言ってんなと呆れながら読み飛ばした。

僕が人生ではじめてそういった類の主張に出会ったのは、5歳くらいの時のピアノ教師によってである。短調の曲を弾くのに「感情が追いついていない」というのだ。「あなたは悲しい経験なんかしたことないから、悲しい表現ができないのよ」。いくらガキでもこれがおかしいことくらいは判る。それでは世の有名ピアニストたちは皆、一家皆殺しの生存者だったり原爆症に苦しんでいたり余命3ヶ月と宣告されていたりするのであろうか? そのような経験を持つからこそ彼らは、聴く者の心を揺さぶるような演奏ができるとでもいうのか。そのかなり後に別の教師に替わり、「悲しみの表現」を生み出すのは悲しさではなく演奏テクニックであることを再確認したのであった。

マーク・トウェインの言葉。「我々を悲しませることで、些細なことなど何もない。子供が人形を失くした悲しみと、国王が王冠を失くした悲しみとは、同じ大きさの出来事なのだ。」悲しみや不幸に格付けなどできるはずもない。悲しい本人或いは不幸な本人が他者の不運に触れて、自分の不幸さを嘆くことをやめるのは勝手である。しかし第三者がどうして「彼には不幸を語る資格がある。お前にはない」「お前の不幸などニセモノだ」などと評することができるだろう? 話し手にとっての不幸は紛れもなく不幸なのであって、それが聴き手にとって不幸と感ぜられるか否かは全く以て関係がない。まして相手の体験であるそれを勝手に否定することなどできるはずもない。確かにこれは、上の場合とは違って"客観的"な(絶対的に正しい)判断というものが存在し得ない。たとえそうであれ話者にとっては"いま、ここでの"絶対的な真実"だ。3年後に振り返って「やっぱりあんなものは不幸じゃなかった」と話者自身が回想しても、不幸を表明したその時点での"真実性"を変えることはない。
やっぱり至極当り前の話じゃあないか。

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Comment

2012.10.06 Sat 22:08  私が覚えているマーク・トウェインの言葉。

『禁煙ほど簡単なことはない。俺なんか67回やった。』
これも至言ですね(笑)。

微分、積分を発明したドイツの哲学者ライプニッツが、この世界をもっとも見事な統一的原理に基礎づけられた調和をなしているものとみなし、その理由として、この世界を構成する無数の「モナド」を神が調和ある関係に保っているから(予定調和)という弁神論を唱えたのに対し、これをケチョンケチョンに罵詈罵倒した厭世的哲学者・ショーペンハウエル曰く『人生は無という至福の静けさをいたずらに攪乱するエピソードだ』と決めつけているそうです(『余録と補遺』第2巻)。
立場、思想の違いですが、どちらに同感されますか?
  • #bBmFigmc
  • [Anonym]
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2012.10.06 Sat 23:53  

うーん、僕はショーペンハウアーの味方かな...
ライプニッツの考え方は現代のインテリジェント・デザインに繋がりそうです。これ自体は「隙間の神」的な誤謬に陥っていると考えるので、完全不支持です。
彼に同意する点があるとすれば、世界が「見事な統一的原理に基礎づけられ」ていると見る点でしょう。ですが、それが予定調和に繋がるかと問われると、やはり違うと思いますね。
  • #MF8IyTP2
  • 北落師門
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2012.10.12 Fri 08:30  「初めに言葉ありき」

たしか聖書の「ヨハネ福音書」の冒頭でしたよね。
いかなる思考、哲学も人間の意志もすべて言葉なくして他人に伝達できない・・・まさにその通りです。
人間の思考は全て言葉によって編み込まれ作られるとすると、ひょっとして言語が違えば人間の思考結果は言語の相違によってみな違うユニークなものではないかなど妙なことを考えることがあります。
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.10.12 Fri 19:26  

「私の言語の限界は、私の世界の限界を指し示す」
ウィトゲンシュタインの論考からの引用です。
人間は論理世界の中でしか思考できない。論理は言語である。故に言語は世界を規定します。
決して妙なことではないと思いますよ。言語が違うのと同じように、ある言語に対する理解の度合いも思考の過程や結果を影響するはずです。
  • #MF8IyTP2
  • 北落師門
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2012.10.13 Sat 16:16  アインシュタインが申すには・・・

『私の魂を作ったもの、それはモーツァルトでした。
ある人が私に聞きました。「あなたにとって死とはなんですか」と。
私は答えました。「私にとって死とはモーツァルトが聞けなくなることです」と。』

紡ぎ出す音楽と人格とは似ても似つかないものかも・・・・。私はモーツァルトよりバッハが好きというより、バッハ中毒です。バッハのカンタータ51番を聴いてからすっかり嵌ってしまいました。
何万語を要する哲学書より、わずか十数分のバッハ音楽が多くの言葉を私に語りかけてくれます。音楽の力は偉大です。ただし極近のラップとかロックなど騒々しいだけの『音が苦』は凄く苦手で苦痛です。無理に聞かされると発狂しそうになります。
樋口裕一のあれはひどかったですね。まだブックオフで被害金額が105円ですんで羨ましい限りです(笑)。
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.10.13 Sat 18:45  

僕はクラシックからロックまで何でも無差別に聴いています(笑)。子供の頃はクラシックしか受け付けなかったんですけどね。ギターも、エレキとクラシックとアコギとどれも弾きます;;

僕のピアノ教師が言うには、「人前でモーツァルトを弾く奴はよっぽど自信があるか、救いようもないアホか」だそうです。w
モーツァルトは何というか、教科書的に完璧な和音の使い方やメロディー進行を取っていて、聴き易いと言えば聴き易いですが、なぜか雰囲気が趣味に合わない。シューマンもなぜかそうです。
絵画と同じく、印象派以降の近現代クラシックはかなり苦手です。許容範囲はドビュッシー・ラヴェル辺りまで。
メシアンとかストラヴィンスキーとか武満徹とか、彼らは一体ハーモニーというものを理解しているのだろうかと訝しくなります。

僕もバロック音楽は非常に好きですよ。あのかっちりした感じが性に合うのかもしれません。バロックの極北たるロマン音楽も同じくらい好きですけども(笑)。
  • #MF8IyTP2
  • 北落師門
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2012.10.14 Sun 17:16  モーツァルトの評価は理解できます。

でもアインシュタインをして『私の魂を作ったもの、それはモーツァルトでした。』と言わしめるのは何でしょうね。
近現代クラシックの評価も同感です。ただ意外だったのはマーラーで、ただ長いだけの退屈な作品を作曲するだけの人かと思っていましたが、聴き込むと意外に私になじむ曲でした。

北落師門さんの過去の記事に写真は芸術ではないというような記載を見たような記憶がありますが、間違っていたらごめんなさい。
ある有名なカメラマンの撮影に立ち会ったことが何回もありましたが、あるとき「矢田ちゃん、撮ってみるかい?」と声をかけられ、ハッセルブラードを渡されました。先生と同じ状況・条件でコーチをして貰いながら撮影しましたが、仕上がりを見たら全く下手なのに愕然としました。
先生曰く「カメラマンというのは婦人科でも報道カメラマンでも、瞬間という時間を切り取るのがプロの仕事なんですよ。報道カメラマンは誰が撮っても同じと思うかも知れないが間違いです。その瞬間が『絵』になっているのがプロで、それができるのが芸術家なんですよ」と言われました。
なるほどと感心しました。
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.10.14 Sun 18:02  

マーラーは食わず嫌いな感じです...。ちょっと今度聴いてみようかな。
考えてみたら、僕はオペラをあまり聴かないです。何でだろう?

良い写真は芸術ですが、ピンボケした写真とか何が撮りたいんだか判らないような写真は軍事法廷行きになるべきだと書いたような記憶があります(笑)。
僕の母はプロのカメラマンで、芸術として建築写真のほかにも商業広告用の写真などを撮っています。
"なぜか普通の人には見えないのが見える"(幽霊とかじゃないですよ)ということらしく、撮った写真を見ると確かに建築には見えないような妙な風景が写っています。もちろん無加工の状態です。
「ここで撮った」という所に連れて行かれても、僕には全くどう撮ったのか見当がつかないんです。それで、言われてみると思いもしないものを前景に使っていたりするわけです。電柱とか八百屋の屋根とか。しかも写真の中のそれらは全くそんなふうには見えない。
それが芸術家と、なりたくてもなれない(僕みたいな)一般人の差異なんだと痛感しました。

CanonのIXYを使っていた知人が「カメラが駄目だからうまく撮れない!」などと言い訳していたとき、母が「貸して、カメラの問題じゃないことを証明してあげるから」といかにもプロらしい写真を撮影して返したのですが、その時の知人の表情が見物でした(爆)。
  • #MF8IyTP2
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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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