InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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生死のサイコロ遊び

死んでしまったほうが正しいのではないかと日々自問しつつ、それでもだらだらと生き続けている。何でまだ死なないのか他人に問われたとしたら、僕自身答えに窮するに違いない。敢えて答えるとしたら"惰性"とか"慣性"とか、単にそういったもののためである。暫く前は未だかつてない絶望の深みにどっぷりと浸かっていたのだけれども現在は大してそうでもない。しかし例えば命が危ない状況に陥ったとしたらあっさり生を放棄すると思う。そうでなくとも(今この瞬間でも)あっさりと死ねてしまいそうだ。但しちょっとゴミを出しておきたいだの未読の本を読了してからのほうがいいだの、全くしようもない条件を付けたくはなるのだろうけれど。

「そうだ死んだっていいじゃないか」と閃いた中学の頃から僕の心はずっと慢性的自殺モードである。時に急性的自殺モード(「今すぐ死にたい!」)に切り替わることもあったが、大抵は現在のように"死ぬという選択肢"を手元に置いているだけの状態だ。それは「何があっても死ねば終わるだけの話」という安堵と共に、「何事も無意味ではないか」という虚無感を与える両面価値的なもので、つまりは開き直りのようにすっきりと精神を安定させることはなく、常に自家撞着の内に自らを置き続けねばならないことになる。理詰めで考えようとすればするほどに矛盾は拡大し、自殺を肯定する理由はいつしか堂々巡りとなる。

自殺という解決策を思い付くに至るには、途方もなく巨大な絶望や無力感が作用して生まれる虚無感があるように思われる。「このどん底の状況はどうにもならない/できない→何をしても意味がない」という図式だ。そこから「何をしても意味がない→生きていても意味はない→死ぬのが合理的である/ましである」と続く。衝動的にではなく熟慮の末に"自殺"に辿り着いた者は誰もが虚無主義者になっているのではなかろうか。そして一部の者は自殺を決行し、その一部は死を遂げ、残りは生き延びる。運悪き生存者と決行さえしなかった者たちは徹底的な虚無感のもと、慢性的自殺モードで生き続けていくことになるのだ。

一つの選択肢としての自殺を真っ直ぐ見据えた時点で、自殺志願者の目に映る世界は非自殺志願者のそれとは大きく異なったものになる。まず第一に、人間が生きるための理念的な<常識>がどうしても理解し難いものとなる。第二に、周囲や社会を斜めに見るようになる。そして、何をしようとも傍観者のように自身を見つめるもう一対の視線が生まれる。
「全ては無意味だ」と悟ってしまっている時点で、例えば目標を達成するための弛まぬ努力であるとか人類の生活をより良くしていくことなどといったものが、おしなべて不毛で卑小な営みに感じられてきてしまうのである。どうせ自分に限らず、誰だって死ぬのは自明ではないか。どんな大問題が起ころうとも死んでしまえば全て解決するわけであるから、博愛精神や社会倫理もただただどうでもよく、意味を為さぬシロモノとなる。それらの<意味不明なシロモノ>を中心にして動いていく社会はまた同様に意味不明であり、慢性的自殺志願者は何か根源的な違和感を抱えたまま、そのような社会のど真ん中にぽつねんと佇んでいるほかはないのだ。

ところが、ひっそりと自殺モードに切り替わった人間がその日を境にして俄に引き籠ったりすることは稀だ。何をするのも無意味ならば何もしなければいいのに、それよりもとっとと死んでしまう方が自らの論理を完結させるために"正しい"行動であるように見えるというのに、多かれ少なかれぎこちなさは伴えど、彼/彼女は今までと同じ生活を続けるのが普通である。突然競争から降りてしまうこともあまりないだろう。熱意を失ったようには見えるかもしれないが。

これが僕の言う"慣性"に他ならない。今までこんな生活を続けてきたのだから、ただ何となくまた続けていくだけの話だということ。正に運動の第一法則みたいなものである。慢性的自殺志願者には、運動を止めるに足る逆方向の力を与えるもの(=死に踏み切る切っ掛け)もないが、加速させる原動力(=生きる理由)も同様にないのだから。常に心のどこかは冷め切っており、"不毛"な社会を渡って行く自分を周囲の人間たちと同じ卑小なものとして眺めている。自家撞着の原因はここにある。今までと同じように生活に意味を見出そうとする視線と、それには何の意味もないと宣告する虚無的な視線の共存。けれどもそれらはまた、不思議なことに釣り合ってもいるのだ。

僕にとっていま、生死の問題とはサイコロの相対する面に記された数字のようなもので、結局どの対の面を見ても和は7であり、どう振るかで生死のどちらに傾くかが決まるような、そんなイメージだ。その賽は不安定な台の上に置かれているために、とある方向から少し力を加えるだけで容易に転がってしまい、数字は変動する。たかがサイコロ! それでもやはり出た目に一喜一憂してしまうのが、どうにもこうにもやるせない。

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Comment

2012.09.24 Mon 09:56  あなた、ねえー。

『人間臨終図巻Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(山田風太郎著・徳間文庫)、『運命を拓く』(中村天風著・講談社文庫)を読まれることを是非強くおすすめします。
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.09.24 Mon 10:02  管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2012.09.24 Mon 15:24  

突然のメール失礼します。
もしまだあるようでしたら、よろしければ、トウアズキを少しゆずってくれませんか?または買えるところを教えて下さい。アクセサリーで使いたいのですが、意外と売られてないです↓
  • #-
  • ろじこ
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2012.09.24 Mon 22:08  

>ketsuro8daさん
人間臨終図鑑は確かブックオフで立ち読みしたような気が。人の死に様については法医学を齧ったもので、またYouTubeでグロ動画を探すのが日課なので(笑)、それなりに知識はあるつもりでいます。
惰性で生き続けていることは意外と苦痛ではありません。どんな積極的な心を持ってしても、いずれは全て無に帰するのです。たった一度きりしかないということも、人の生が尊い理由にはなりません。
現在の僕は鬱病者のように、毎日何もせず無気力に過ごしているわけでもないです。ただ己を眺める視線が分岐して、常にそこには虚無的/客観的な自分がいるというだけ。その視線が取り立てて邪魔なわけでもなく。
パスワードは...ググれば判ると思います;;


>ろじこさん
まだ何千粒もありますよ!ちょうどヤフオクなんかで売ろうかなどと考えていた所です。確かに売っている所は少ないですし、僕が入手したのも国外なので、普通に手に入れるのは困難でしょう。
ちょっと左側のメールフォームから直接メールを下さい。詳細はそちらで。

2012.09.30 Sun 02:23  私も同じです

初めまして。以前より、よく此方のブログを読ませて頂いて居りました。

私もあなたと同じく「人はどうせ死ぬのだから何をやっても無意味」と言う考えを、ずっと持ってます。ただ、そこから私は違って「だからこそ色々やって、好きに生きてみよう」という気持ちが有ります。
死ぬのはいつだって出来ます。寿命を迎えたり、思いがけない事故が起きない内は、ですが。
それまでは色々やってみて(犯罪はダメですが)どうなるか、それを楽しむ事。世界に有る色というのは、人によって見え方が違います。それと同じ様に、聞いた話と、それを実体験するのは、また別なのです。
例えば、お酒を呑んで、人も車も行き交わない時間、歩道で大の字に成って寝てみるの、すごく気持ちいいんだそうです(私もいつか実行したいと思ってます)。そんなちょっとバカみたいな行動とか、生きてれば楽しいと感じる事も、死んだら体験出来ないですよ。勿体無いです。

こんな事を書いたのは、あなたの考えに惹かれる部分が有るから。寿命を迎えるまでは生きて、此処で私に聞かせて欲しい、という下心が有るから、かも知れません。

2012.09.30 Sun 03:05  もう1つだけ

例えばですけど、ノーベル賞とまで行かなくとも、周りが将来的に役立つと評価する様な研究を続ける事――それは無意味なのでしょうか?

2012.09.30 Sun 05:05  

どうも、初めまして。

何だか前にこういった問題について書いたような気がするなあと思って探してみたら、ありました(合理主義≠悲観主義、記事番号215)。
以下はそちらの文章の考えを使うので、先にそれを読まれておいたほうがいいかもしれません。

いま自分にとってこうであるならそうなのだという定立は、例えば「だからこそ色々やって、好きに生きてみよう」という価値観に繋がることもあります。それは"この瞬間の生を楽しむ"ということに重きを置いている事になるからです。
それが客観的に無意味かどうか、他の誰かにとって有意味かそうでないかということはどうでもよく、そして実現可能か否かに関わらず、ハルさんがそれを有意味だと宣言すればそれはハルさんにとって全く正しいことになります。

ですが、それを(僕を含む)他者に遍く適応できるわけではありません。それは基本前提として個々の人間は他者から独立だというものがあるためです。これがあるから「いま自分はこうだと信じる、故に(自分にとっては)こうである」と言うことができます。
「どう生きるべきか」は普遍的な法則なのではなく、信念に過ぎないのです。

また、死んだら色々なことを体験できないから勿体無いというのは、喩えて言えば自由意志がなくなった死後の世界で「あれをやっておけばよかった」と後悔する視点を想定している主張です。僕は死後の世界はないと信じるほうなので、死ねば後悔できないのは当然となるし、現在想像できないことに対して未練が残るはずもなく、また未練の残ることがあれば死ぬ前に実行してしまえばいいのであり、故に自殺に際しては"将来のことを思っての後悔"は存在しえないと考えます。

社会のためになる研究を続けるのが有意味だとすれば、それは"社会貢献は有意味だ"という信念に裏打ちされています。つまりその信念を共有しない者(僕とか...)にとってはやはり無意味な営みです。

僕は現在慣性でずるずる生き続けているわけですが、今の運動を完全に止めるほどの逆向きの力がかかれば観念して自殺すると思いますよ。宿命論に傾くみたいで嫌なんですが、それが死に時だと思う。寿命みたいなものです。例え事故や他殺であっても同じで、「まあしょうがないか」とか言って大人しく死ぬ気でいます(笑)。
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  • 北落師門
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2012.10.01 Mon 20:21  アインシュタイン曰く

『われわれが正直に行動するのを許されているのは、生まれる瞬間と死ぬ瞬間だけだ』
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.10.02 Tue 09:28  ラ・ブリュイエール曰く

「人生には3つのことしかない。生まれる、生きる、死ぬ。生まれることは感じない。死ぬことは苦しむ。そして生きることは忘れている」
なれば忘れてしまわぬように、日々穿った見方をしながら思考して生き続けるのも、僕はまた良いのでないかと思うのです。
  • #MF8IyTP2
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Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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