InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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連想随想

今これくらい耐えれば、後にきっとその分、或いはそれ以上に報われると思い込むことはよくあることだ。だが実際にそうなることといったら、よく考えてみればそうそうない。
ひどく堅苦しい話をしているのではない。例えば今手元に5000円しかないとして、これから友人に2500円の借りを返しにいく道中にあるとする。ふと行き過ぎた店のショーウィンドウに展示された品を見て購買欲が沸く。ところがその商品は3000円する。そこで「今は友人に借りを返さねば。それにもう少しすれば安くなるかもしれない」などと自らを宥め、結局その日の購入は諦める。次の日3000円を携えて店を訪れてみると、その商品は既に品切れであった…という具合である。(現実的に考えれば、友人にまず2000円返して後日500円を追加すればいいだけの話なのだが!)
勿論"堅苦しい"例(?)に応用する事もできる。いつも強弁で以て自らの意見を通そうとする相手に、現在無条件で要求を呑んでやることによって"いつか"どうしても譲れないときに折れてくれはしないかという期待を抱くというような行為も、結果は上に同じ。そんな上手い具合に事は運ばないものだ。互譲の精神とか何とかいうのも弱者が縋り付いている妄想に過ぎないのである。
"自己中心力"とでも言おうか、それはやはり必要なものだろう。もちろん何もかも全て我田引水状態にしてしまったら単なるお子ちゃまだ。ただ肝要な点においての自己中心さは放棄してはならない。問題はだからといって"肝要ではない点"で妥協し続けたがために結局は完全に自己中心性が失われてしまうこと。そうなったら周りから見れば「協調性のある」「控えめな」いい人なのだろうだが、それは裏を返せば「芯のない」「都合のいい」人間である。妥協し続けることで、突然"自己中"になったときの周囲の視線が気になってきてしまうものだ。たぶん"沈黙の螺旋"の発生にもこういった人々が一役買っているのだろう。
沈黙の螺旋といえば、よく目にするこんな光景を思い出す。「反対は挙手を」沈黙。「では反対なしということでいいのですね?」そろーりと一人が挙手。全員の視線が挙手した者に集中。暫し沈黙。二人目の挙手。それから間が少し開いてまばらに手が挙がる。気がつくと挙手している者の数はいつの間にか過半数を超えている…(笑)。とはいえ、大抵の場合はその一人目の手すら挙がらずにアビリーンのパラドックスに囚われるのがオチなわけで、何とも間抜けなものである。それでいて議決者は誰もかも「みんなにいい事をした」なぞと思い込んでいるわけだから、全く以てアホの上塗り。そもそも間違いの根源は「みんなのために」何かをしようとしていることにあるのではないか。自分に都合のいい決定というよりは、自分で考えてみて最も合理的な或いは効率的な決定に挙手すればいいのだ。そうすれば自ずと全体の決定もまあまあ合理的なものに落ち着くに違いない。「みんなの気持ち」を尊重してもほとんどの場合、結局は誰の為にもならない。本当に「みんなのために」何かしようとするのならば目前の安楽を追求しても仕方がない。後で更なる面倒を背負い込むことになるのもやはり自分たちなのだから。

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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