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InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

合理主義≠悲観主義

僕は自分の思想が結構前向きだと思っていたのだけれど、この間知人にひどく後ろ向きだと評されて本気で驚いた。世界や人生に対して救いのなさすぎる見方をしているという。
どう考えてみても僕の考え方というのはこの救いのない世の中に無理にでも希望を見出そうとしているという感じが(自分では)するのだが…なぜって、どう足掻いたって最終的に自分は死んで(自分にとっての)何もかもが終わるのだし、そしてその短い一生の中であくせく動き回ってやっと手に入れるのは「使い古された栄光」に過ぎないのだし(回想と随想を参照あれ)、かつ人生が終わればそれも何の意味も持たぬものに化すのだし、死んでも死んでいなくても人間なぞ地球上に発生した化学物質の浮いたカスに過ぎないし、生きている中で「いいこと」を頼りにして生きていくのは道端に10円玉が落ちているのを期待しながら散歩するようなものだし、世界そのものには全く救いがないにも関わらず、自己は「他者性」や「客観性」から独立であるという定立を導入することによって、「現在自分にとって○○であると思うなら、それは○○なのだ」というとてつもなくポジティブな思想に繋げているではないか。
たとえばいかに周囲の人間がくだらないと言おうとも、そしてそれが実現する前に事故かなんかで死んでしまうとしても、三ヶ月後に貯金でバイクを買うことを生きる目的にして生きている男がいたって何ら問題はないのである。なぜなら彼にとってバイクを買うということは非常に意義のあることであって、「客観的」に見て意義があるかないか、もしくはそれが実現するかしないかというのはその命題と完全に独立だから。たとえばこの世界が五分前に誕生したとして(世界五分前仮説。証明もできないが反駁もできない)、そうすると今ある知識はすべて嘘だという事になり、またこれをひっくり返して考えると世界は五分後に消滅するかもしれず、そうであれば「未来の為に」現在行っている全ての事柄は無意味になる。それでも「今現在の」自分が何かを有意義だと信じるなら、例え根拠などなくとも、それに縋って希望に満ちた世界を描くことが可能なのだ!
その上、何にも意義を見出せずむしろ人生というのは時間と労力の無駄だと思う場合、もしくは生きるのが厭で厭でたまらない場合、究極の選択肢として死が残されている。しかも死んでしまえば二度と何も感じずに済んだりと、全てに嫌気がさしてしまった人間にとっては理想的すぎるくらい理想的なオプションなのである。不可逆的だから理想的じゃないじゃないかと言われそうだが、死んでしまえば後悔することもできないのでやはり最上の選択になるというわけだ。
すこし前までの僕は「世界に救いはない」で止まっていたけれども、まがりなりにも存在する「生産性」に対する説明がつかなかったのでそれを解釈しようと頑張っていたらこういう結論に辿り着いた。こんな見方をすると―つまり、「客観的」になろうと努力しないということ―世界がバラ色に見えてくる(人もいるだろう)。どうせ誰も主観から脱出できないのだし、それどころか客観など他人の主観に過ぎないのだから、自分がどう思うかを重視したって全く問題ないではないか。これでも人生に悲観的って言うかなあ?

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