InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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「見える」とはどういう事か

確かに見えているのに、見ている者にとっては存在しないものというのがある。有名な実験に、たとえば「これからボールが何回パス回しされるか数えてください」といって被験者に映像を見せるというのがある。実はボールが回されている間、ゴリラの着ぐるみを着た人間が画面の端からそーっと入ってきて、その上画面中央で踊ったり(?)するのだが、あとで被験者に「ゴリラに気がつきましたか」と問うと、ほとんどの者が気づいていない。視野には確実にゴリラが入っていたにも関わらず、そして見ていたにもかかわらず、被験者にとっては<そこには無かった>のである。なぜならば、被験者の意識はボールに集中されており、ゴリラ(を含むボール以外の全ての物)ではなかったから。これをインアテンショナル・ブラインドネス(inattentional blindness)という。

関連した概念に、チェンジ・ブラインドネス(change blindness)というのもある。たとえば人(A)がフライドポテトを食べていて、突然隣に座った者が「あそこにいるのオバマじゃないか」と声を上げる。Aは顔を上げて、<あそこにいる>人間がオバマでないのを確認して視線をポテトに戻す。実はAが顔を上げている間、隣の人間がAのポテトを一本失敬したのだが、大抵の場合においてAはそれに気がつかない。注意がポテトからオバマにずれてしまったので、ずっと手元にあったポテトはAの視界に入っていたのに<見ていなかった>のだ。僕としてはこれもインアテンショナル・ブラインドネスだと思っているのだが。

しかし―心理学を光学に置き換えて申し訳ないのだが―人間の目はレンズである。眼球の構造はアナログカメラとよく似ている。アナログカメラは単焦点、つまり一度に一つの点にしか<集中>できない。もしくは視野に入っている物のどれにも<集中>しないか(部屋の中でφ=∞を使っている時など)。上のポテトの例でいえば、毎度手元のポテトの袋を見る時、人は周りのポテトや袋や自分の手などを全て引っ括めて<見ている>のではない。水晶体の焦点にあたるたった一本のポテトの、しかも一部分しか見ていないのだ。ゆえに失敬されたポテトは<見えていたのに見ていなかった>のではなく、ただただ<見えていなかった>のである。

ブラインドネスは盲目、つまり光を感じられないことだ。だが上に書いた二つの<ブラインドネス>は光を捉えられない事が問題だったのではなく、単にピントが合っていなかっただけの事だといえよう。今例えばこの文章の<この単語>を読みながら同時に一行目の文を読めるか。視界には入っているが、それを読むにはピントをずらさなければならない。読者にとって今この瞬間には一行目の文章は<見えない>のである。<見ていない>のではないのだ。「見えないのと存在しないのはよく似ている」とマックオウンは言ったではないか。

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北落師門

Author:北落師門
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