InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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変な言葉

どうにも「腑に落ちない」言葉というものがある。
「腑に落ちない」というと何となく利益面が絡んでくるようなイメージがあるのでやや語弊があるが、要はただ単に「変」な言葉ということだ。文法的に間違っているのではない。ロジックが違うというか、いややはりただ「変」だとしか言いようがない。たとえば-

『運命は変えられる!』
いやによく聞く言葉である。あまりによく聞くので何が変なのか一瞬わかりづらいが、まず話者は「運命」という語彙を用いている時点で「運命」の存在を肯定していることになる。しかし「運命」とは定められたものであり、人間の意志では変えられないものというのが定義だ。それを「変えられる」と来る。これはどう見ても自己撞着である。
前提1:運命は存在する
前提2:未来は自分の意志によって変えることができる
結論:???

『私は生まれた』
「生まれた」は自動詞だ。ということは話者は自らの意志で生まれたことになるが、しかし出生は選べない。最近のスピリチュアル・カウンセリングとか何とかは出生の意志を肯定しているらしいが、あれはまあ出生の問題に悩み続けて悶々としている者どもを自己満足させるための手段に過ぎぬ。とすると英語などでの「I was born」のほうが正しいと僕は思う。少なくとも意志があったなら僕は絶対に生など選んでいない(苦笑)。

『友達になろう』
これもまた耳慣れすぎて厭になる言葉のひとつ。同じようなものに「恋しよう」があるが、そもそも友人になったり恋人になったりというのはしようと思ってもできるものではない。こう言うと曖昧で凄く厭なのだが、友情や恋慕とは「なんとなく」始まるものではないか。話してみたらなんとなく気が合った、そしてなんとなく友人という集合の中に落ち着いた、みたいな感じである。「なろう」と言ってなる友人はまた逆に「友人やめた!」(何だこの台詞)と言い出すのも困難であろう。そして表面的には仲良さそうに笑いながら腹の底で相手を恨み呪っているという恐ろしい状況が発生するに違いない(多分)。

『一緒に…』(広告)
広告においてよく見かけるフレーズである。たとえば「一緒に夢を叶えましょう」だとか「一人で悩んでないで(中略)一緒に解決しませんか」とか。ああいうのを見るとなぜか非常に腹が立つ。理由は簡単。偽善的すぎるからだ。たいてい彼らが「一緒に」とのたまっているのはしごく労力を必要とする行為である。ところが彼らは広告からにやにや笑いかけるのみで、何もしない。何かするならそれも金の為である。それを「一緒に」と言うのだ。やたら腹が立つのは僕だけか。

おまけ:Macintosh
知人がMacBook Proを買った。今までWindows一筋でマックなんかほとんど触ったこともない奴である。操作が判らんというので僕のところに持ち込んできた。何か新しい機能はないかと(最新型だったのだ)、説明書をめくってみると1ページ目に…

「おめでとうございます。このMacBook Proはあなたに出逢うために造られたのです。」

いやあれは笑った。第一何が「おめでとう」なのかも判らんが、とにかく素晴らしいマック様なので許すことにした(笑)。

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Comment

2010.05.27 Thu 23:45  

現在は自動詞ですが、
源は
「生む」+受身の助動詞「れる」=「生まれる」
だったかもしれませんよ。

2010.05.30 Sun 17:24  

あ、本当に「れる」が入ってますね;;
なら受身のままにさせときゃ良かったのです。(笑

2012.11.10 Sat 10:14  「運命」について

「運命」なんていうものは本当はないのです。その人の意志にかかわらず身に巡ってくる吉凶禍福、将来なんてナンセンスです。昔の中国の天命論の誤りです。
本当に変えられないのは「宿命」であって、北落師門さんの言われる通り生まれてくること、男女かどこに生まれてくるかくらいなものです。
タバコを吸えばガンになるかも知れない、大麻を吸うと統合失調症を発症する確率が4倍高まるとか世の中は因果論で動いています。努力すれば報われることがあり、何もしなければ何も起きない、つまり人の将来はその人が考えているようになるのです。
中村天風の受け売りですが、それが正しいと思っています。
  • #bBmFigmc
  • ketsuro8da
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2012.11.10 Sat 14:23  

運命という語を使う人がどういうニュアンスで使いたいのかいまいちよく判らないのですが、とりあえず広辞苑によれば「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力」だそうです。とするとその天命論に近いものですね。

全てが因果関係だけに支配されているように見えるのは、因果律を重んじる科学が現在支配的だからというだけで、もしかしたら因果だけではないかもしれません。
少なくともそれは反駁できない。まあひょっとすると運命もあるのかもしれない。しかもそう考えても別に矛盾するような点はない(因果論者からしたら前提が一番間違っているわけですが...)。

では運命があると肯定してみるとしましょう。問題は"運命が実際にあるかないか"ではなく「運命は変えられる」という語の自家撞着です。
"運命"という語を用いているということは、運命の存在を肯定している。それなのに「(人間の力で)変えられる」と言うわけです。
上述のように、運命は「人間の意志を超越した力」なので、人間の意志でどうにかなるものではない。「変えよう」という意志が効くはずがない。だから「変」だというわけです。
  • #MF8IyTP2
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Author:北落師門
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大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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