InAequabilitas

 moneo in reticentia - audi.

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理解について

僕はとうの昔に他人に理解されようという希望を捨ててきたのだが、それには二つほど理由がある。まずはじめに(誰でも思いつくかもしれないが)、理解されようと努めた挙句それが水泡に帰し続け、結果として単純に絶望したから。第二には、それにやたら学術的な説明を自ら与えてしまったから。というのは、心理学において―僕はこの説がひじょうに好きなのだ―ジョハリの窓と呼ばれる自己開示性を調べるテストがあり、それによると心は4つの領域からなるという。開放領域(自他ともに知っている)、隠蔽領域(自分のみ知っている)、盲点領域(自分は知らないが他人が知っている)、未知領域(自他ともに知らない)の4つである。
とすると自分ですら自分を完璧には理解できない(盲点/未知のため)のだし、ならば他人が自分を完璧に理解しているというのはある意味ホラーだということになる。もうひとつ僕が思うのは、「誰も解ってくれない」と人は言うけれど、確かに完全に解ってくれる奴はいないだろうが、逆に完全に解ってくれない奴もいないだろうということ。多かれ少なかれ人は出会った相手の事を理解している(会ったこともない人間の事はさすがに解らないなあ)。問題はその割合であり、そのパーセンテージに対する要求が比較的高ければ「誰も解ってくれない」になるのだろう。
みんな中途半端に解り合っているだけなのに「あなたの事は解っているよ」とかいう謎の言葉を吐いたり、中途半端に解り合っているにも関わらず「あなたは解ってくれない」と泣き喚いたりするというわけである。
しかしその理解が特定の事物に関するものであれば、この二つの言葉は有効となる。たとえば片方が「シーチキンっておいしいと思う」と言ったとする(別にシーチキンであるべき理由は全くないが)。そして相手が「そうかねえ。おかかのほうが美味いと思うが」と言い、激昂した(激昂しなくてもいいけど)先の一人がシーチキンが美味い理由を長々とまくし立て始める。その大演説が終わった後、それでも後の一人が首を捻って「いや、やっぱりおかかでしょう」と言うならば、先の一人は泣き喚きながら(泣き喚かなくてもいいけど)「あなたは解ってくれない」と言うことができる、というわけだ。逆なら大演説後におかか派のほうが「そうか、ではシーチキンは美味いのだろうなあ」と言えば、シーチキン派の「ああ、解ってくれるのね」は有効となる。
上の例においての「理解」は「シーチキンが美味い」という事柄に関してだ。そういう個々の具体的な事柄であれば完璧な理解は可能かもしれない。しかし人間をまるごと、それも思想だとか曖昧なものを全てひっくるめて「理解せよ」というならそれは絶対に不可能である。
誰かを理解してやることは美徳であり理解してもらえないのは苦痛の頂点、みたいに言われているようだが、はてさてそのような定義は意味があるだろうか。「偶然」誰かを理解できて「偶然」誰かを理解できなかったというのみ。思考みたいに曖昧なものについては、解らないものは努力しても解るはずがない。逆に解りたくなくても解ってしまうものもある(超凶悪犯の犯行時の心理とか)。でもやはりそれらも部分に過ぎない。何故か。簡単に言えば、「僕はあなたではないから」。

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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