InAequabilitas

Date : 2012年10月

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小動物の一種としてのコドモ

この記事でも書いたように、僕は子供というものが気に食わない。自分がかつて子供であった時代のことを全世界の人間に向かって陳謝したいほどである。やはり眺めれば眺めるほど彼らは「ヒト型小動物」にしか見えてこない。実際ヒトよりもイヌネコにより近いようにも思える。いっそのこと彼らを小動物の一種と定義してみてはどうだろう。そちらのほうが理に適っているのではないだろうか。

イヌネコを公共交通機関に乗せるとする。飼い主は「他のお客様のご迷惑にならないよう」ペットを全身が隠れるようなケースに入れ、鳴き声や匂いが漏れないようにしなくてはならない(僕が時折乗るバスの注意書きにそう書いてある)。飼い主が何と言おうと「嫌がるお客様もいらっしゃいますので…」と返されるのみ。スーパー・デパートでも、ペット美容室など一部の店以外はペットの立ち入りが禁止になっている。そりゃ商品を勝手に食べられたり壊されたりしたらたまったものじゃないからなあ。
但しペットを公共の場で放っておいたときと子供をそうしておいたときの(考えうる)実害は対して変わらない。躾けられていないペットは吠えたり鳴いたりするだろう。この点はどんな子供もそう大して変わらない。子供はむしろ躾けたって黙りゃしない(単に泣き喚かなくはなるだけだ)。ペットが嫌いな人間に比べれば子供が嫌いな人間は少数派かもしれないが、それなりの数は僕の周囲にだって確かにいる。スーパーにいても、商品は開けるし時には食ってすらいるし、店内を走り回るのはそう珍しくもない。子供がガラス製品の棚の横にいるだけで緊迫感満点である。親だってあれ欲しいこれも欲しいと喚かれてさぞかし困っていることだろう。金銭感覚が全く欠如しているのだから仕方もない。衛生観念も同様に欠如しているから、得体の知れないものを触った手で色々なものを掴む。それを何も知らぬ他人が買っていく。やっぱりペットと大差ないじゃあないか。

数ヶ月前の帰国の日に空港で、2-3歳くらいの子供のリュックに長い紐をつけて連れ歩いている若い父親を見た。正にイヌの散歩のような光景で愉快であった。前に並んだ御婦人二人が「ひどいわねえ、子供が可哀想じゃないの」とか何とか感想を述べていたが、ペットと同じくちょっと目を離すと何が起こるか判らないコドモというものの扱いには紐で繋いでおくのが全く以て最適である。少なくともイヌは首輪をさせられそこに紐をかけられているのだから、それに較べればリュックに紐というのは既に十分優遇されている。

子供が小動物と見なされるようになれば、法律での扱いもまた楽になるのではないか。責任年齢以下の子供を小動物とすると(まず責任年齢の大幅引き下げが実現されるに違いない)、その行為には刑法が適用されない。代わりに子供の飼い主たる親が、「過失」とつくとはいえ刑・民いずれもの責任を問われることになる。ガキの火遊びで家を全焼させられたとか投げた石が当たって死亡とか、そこまで過激な結果を引き起こさずとも、遊んでいてクルマを凹ませただの、他人に怪我をさせただのという「たわいないこと」が突然刑罰的な色合いを帯びて親に迫ってくる。金さえ出せば何だって解決する問題ではなくなるのだ。そうすれば街中にイナゴの如く蔓延るバカ親どもも、今のようにガキを放し飼いにしておくことはなくなるに違いない。
また、児童虐待も「動物虐待」、嬰児殺や児童殺傷も「器物損壊」でいい。児童虐待のニュースが流れる度に国中が憤慨するようだが、誰かが飼い猫を酷く虐待していたとしてもあれほどまでに連日報道されたり徹底的なバッシングを受けることはないのではないか。だからといって許される行為だと言いたいのではなく、ただただそれらを差別化する理由が見当たらないだけである。愛する我が子を殺された母と10年以上飼い続けた愛猫を殺された老婦人の悲しみは大して変わらないはずなのに、片方は「殺人」でもう片方が「器物損壊」なのだ。殺される側を考えてみたってやはり変わらなさそうだ。生命に対する執着であるとか、感情の複雑さとか、死ぬ間際の恐怖や苦しみなどを考慮しても子供とペットではそれほど違いは際立っていないように感じられる。(生物学には疎いから断定を避けるけれど。)

長々と反社会的(?)なことを書き連ねたが、これを読んで僕を虎視眈々と子供を殺害する機会を狙っている危険人物のように感じた読者は理解力が足りないのである。僕は子供を嫌悪しているだけで憎悪しているわけではない。憎悪する理由もないからだ。付け加えると僕はそこらによくいる「うるさいおじさん」の類でもない。ただじっとイヤフォンをし手元の本を凝視しつつ通行人Aに徹している。

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毒物劇物取扱者試験 (埼玉平成24年度)

埼玉県の毒劇試験を受けてきた。これはどう考えても...受かる!(笑)

受験した人のために、答え合わせ用の答案を置いておく。判っているミスは既に修正済み。
区分は一般 (特定品目と農業品目の問題気になるなあ)。他にもミスがあるようだったら指摘してください。

[法規]
2 3 2 4 3 2 4 4 3 1

[基礎化学]
2 3 3 4 2 3 4 1 4 2

[毒物劇物の性質]
4 1 2 2 1 3 3 1 4 4

[実地]
2/2 1/1 4/1 5/1 3/2

僕は法規と性質で1問ずつ外していたらしい。他は大丈夫だと思う。

[2012. 12. 4 追記]
合格していた。成績開示にも行ってみたが、自己採点は正しかったようだ。
埼玉県の合格基準は以下の通り(原文)。

各問1点とし、次の(1)及び(2)の基準を満たしている者を合格とする。
(1) 筆記30点満点のうち、6割(18点)以上かつ各科目別で平均点を著しく下回らない者(1点以上得点した者)
(2) 実地10点満点のうち、6割(6点)以上得点した者


因みに今年の合格率は一般41.4%、農業用品目22.8%、特定品目36.0%で合計では38.1%とのこと。

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未視感・他者性・人工意識

僕の知らぬ間に夜は更け続けて、いつしか黎明が訪れていたのらしい。暗いはずだと思い込んでいた窓にふと目をやって、空が白んでいることに驚いた。今は秋、5時半の空は明るいとは言い難く、かといって暗いとも形容すべきでない。薄汚れたような水色と何とも言えない奇妙な明るさのもとで、鳥か虫の鳴き声が車の走り去る音と共に響いている。遠くを見ると、朝霧の向こうに高層ビルが霞んで見えた。それはまるで偽物のようだった。
見慣れぬ街に迷い込んだような不安感。時折、何でもないような情景のなかに突如として小さな差異を発見し、見知らぬ世界を眼前に突き付けられたようで戸惑うことが僕にはある。それは僕ではない誰かの世界だ。他人と過ごす時ではなく、そうやって不意に日常の中の違和を垣間見る時―大抵は一人でいる時—僕は最も"他者"の存在を感じる。
概念としての他者は僕を困惑させ、思考を揺るがし、僕の内にある凪いだ水面を叩く。どうか放っておいてくれ! 彼らも僕の世界の限界のうちにしか存在し得ないのだ、それなのに何故思いもよらぬことを起こしてみせるのだろう? 僕はますます困惑する。これじゃあまるで、僕の世界はすべて嫌味なプログラマが作成したシミュレーションのようじゃないか…
ああ、けれどもそれなら僕は0と1によって記述されるデータでしかないのだ。感情も意志も、そうあると思い込むようプログラムされているだけで、実際そんなものはありはしない。他者も存在しない。僕は意識という情報の束であって、正確にプログラムに沿って動いていく。何と素晴らしいことだろう!

言葉はそれ以上でも以下でもない言葉そのもの

ある作品の作者の人格は、その作品の価値に影響を及ぼさない。話者の人格は、語られる言葉の正当性を些かも揺るがさない。当り前の話である。モーツァルトは下品で低俗な人間だったというが、その和音の操り方は類を見ない素晴らしさだ(とはいえ、僕自身はモーツァルトの作風が好みではないのだけれど)。音楽ならまだ理解されよう。ところが、人生論・忠言・哲学…の領域になるとそうはいかないらしい。例えばビル・ゲイツが清貧の思想を説く。或いは常習窃盗犯が遵法的生き方を賛美する。普通彼らは「何言ってやがる、大富豪のくせに/泥棒のくせに」と全く相手にされないのであろうが、そうだとしても発せられた言葉の意味・内容は話者や筆者からは独立している。話者の人格が影響するのは話者自身の(その言葉に対する)誠実さであり、虚言を弄しているかいないかの判断であり、感じられる言葉の"重み"なるもの(何だこれ?)であったりする。しかしそれは断じて言葉自身の内容とは無関係なのだ。

以前何かの本で読んでどの本だったか忘れてしまったが、面白い実験の話が載っていた。死刑反対の弁論を収めたテープをAとBの二組の被験者に聴かせる。Aグループには、話者が"自身が何度も死刑判決を出したのち熟慮して死刑反対に転じたベテラン裁判官"であると伝え、Bグループには"審理中の凶悪連続殺人犯で、今まで一切反省の色を見せたこともない"と伝える。当然ながらテープは全く同じもの。そして主張に賛同できるかを問う。容易に想像できることだが、Aグループのほうが賛同率は圧倒的に高かった。しかし殺人犯が言ったからといって、その弁論の内容は否定されてもよいものだろうか? 数学で赤点ばかり取っている生徒がある日突然テストを完答したとしても、教師はやはり満点を与えなければならない。それと同じことだというのに、「お前にそれを語る資格はない!」と喚き散らす御仁の多さときたら。
今まで買って失敗したなあと思う本はそれほど多くはないのだが、そのうちに樋口裕一の"頭のいい人、悪い人"シリーズがある。確かブックオフで105円だったので2冊買ったが、とうにまたブックオフに売ってしまった(合わせて10円くらいではなかったろうか)。その本にも"たかがそれごときの不幸を背負い込んだくらいで不幸面するんじゃねえ"といった主旨の記述があったような覚えがある。ああこいつも言ってんなと呆れながら読み飛ばした。

僕が人生ではじめてそういった類の主張に出会ったのは、5歳くらいの時のピアノ教師によってである。短調の曲を弾くのに「感情が追いついていない」というのだ。「あなたは悲しい経験なんかしたことないから、悲しい表現ができないのよ」。いくらガキでもこれがおかしいことくらいは判る。それでは世の有名ピアニストたちは皆、一家皆殺しの生存者だったり原爆症に苦しんでいたり余命3ヶ月と宣告されていたりするのであろうか? そのような経験を持つからこそ彼らは、聴く者の心を揺さぶるような演奏ができるとでもいうのか。そのかなり後に別の教師に替わり、「悲しみの表現」を生み出すのは悲しさではなく演奏テクニックであることを再確認したのであった。

マーク・トウェインの言葉。「我々を悲しませることで、些細なことなど何もない。子供が人形を失くした悲しみと、国王が王冠を失くした悲しみとは、同じ大きさの出来事なのだ。」悲しみや不幸に格付けなどできるはずもない。悲しい本人或いは不幸な本人が他者の不運に触れて、自分の不幸さを嘆くことをやめるのは勝手である。しかし第三者がどうして「彼には不幸を語る資格がある。お前にはない」「お前の不幸などニセモノだ」などと評することができるだろう? 話し手にとっての不幸は紛れもなく不幸なのであって、それが聴き手にとって不幸と感ぜられるか否かは全く以て関係がない。まして相手の体験であるそれを勝手に否定することなどできるはずもない。確かにこれは、上の場合とは違って"客観的"な(絶対的に正しい)判断というものが存在し得ない。たとえそうであれ話者にとっては"いま、ここでの"絶対的な真実"だ。3年後に振り返って「やっぱりあんなものは不幸じゃなかった」と話者自身が回想しても、不幸を表明したその時点での"真実性"を変えることはない。
やっぱり至極当り前の話じゃあないか。

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Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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