InAequabilitas

Date : 2012年09月

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趣味の話

昔の刑法が好きだった。「罪ヲ犯ス意ナキ行為ハ之ヲ罰セス但法律ニ特別ノ規定アル場合ハ此限ニ在ラス」(第38条1項)とか。これが改正されて「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」という何とも品格のない(失礼!)文章になってしまった。読み易くなったとは言えるかもしれないが、昔の文章だってこちこちの古文であるわけではないのだから(現に古文が大の苦手の僕でさえ苦もなく読めるじゃないか)、変えなくても良かったんじゃないかと思ったりもする。何だか現行刑法では法律らしさとでもいうべきものが失われているような。刑法が口語化されたのは平成7年だから、僕が法学なんぞに首を突っ込み始めた厨房の頃には既に口語だった。だから旧刑法に慣れ親しんでいたわけでもないのだけれど、初めて手に取った六法が94年度版だったせいかもしれない。これぞ法律!という強烈な第一印象だけが植え付けられて今に至っているのだろう。



講談社現代新書が装幀を一新したときは途方もないバッシングを受けていた。僕はあのどぎつい背表紙が嫌いだった。しかしその後で表紙のように、白地に小さな四角というデザインに変更されて許容範囲に戻ってきた感じ。但し背表紙が変わったと同時に帯の幅が途方もなく広くなり、タイトルより帯の広告文字のほうが目立つという意味不明な状況に陥ってしまった。だが帯さえなければ今の現代新書もなかなかいい。なぜって、これよりも遥かに酷い装幀の新書はいくらでもあるのだ。例えば僕が今一番嫌いで、目にもしたくないのはフォレストの2545新書。なんだあのショッキングピンクは。知性の欠片もない。何冊か2545新書を立ち読みしてみたこともあるが、内容も同じようにどうでもいいものばかりだった。
反対に、一番好きな装幀はやはり中公新書。統一された深緑色が落ち着いた知的な雰囲気を醸し出している。著者の紹介が最後のページにしかこぢんまりと入っていないのもいい。誰が書いたのかなんて本の内容の二の次なのだから、本文を読むよりも前に自己主張してほしくないのだ。岩波新書の難点はあの赤かなあ。PHP新書くらいの深い色なら良かったのだけれど。



数学的・科学的モチーフがやっぱり好きで仕方ない。僕の部屋には周期表が4枚と太陽系ポスター、そして「磁気と超伝導」が貼られている。机の上にはガリレオ温度計があり、宇宙図が敷いてあり、さっき遊んでいたメビウスの帯が3本ほど乗っかっている(笑)。外付けハードディスクの名前は3.141592653であり、CドライブはXenonである。調理器具をすべて実験器具に置き換えてしまおうかと本気で悩んでもいる。Amazon.comにも心を見透かされているらしく、今日は真ん中ドストライクなネクタイを勧めてきた(画像)。おいやめろ本気で欲しくなるじゃないか!
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生死のサイコロ遊び

死んでしまったほうが正しいのではないかと日々自問しつつ、それでもだらだらと生き続けている。何でまだ死なないのか他人に問われたとしたら、僕自身答えに窮するに違いない。敢えて答えるとしたら"惰性"とか"慣性"とか、単にそういったもののためである。暫く前は未だかつてない絶望の深みにどっぷりと浸かっていたのだけれども現在は大してそうでもない。しかし例えば命が危ない状況に陥ったとしたらあっさり生を放棄すると思う。そうでなくとも(今この瞬間でも)あっさりと死ねてしまいそうだ。但しちょっとゴミを出しておきたいだの未読の本を読了してからのほうがいいだの、全くしようもない条件を付けたくはなるのだろうけれど。

「そうだ死んだっていいじゃないか」と閃いた中学の頃から僕の心はずっと慢性的自殺モードである。時に急性的自殺モード(「今すぐ死にたい!」)に切り替わることもあったが、大抵は現在のように"死ぬという選択肢"を手元に置いているだけの状態だ。それは「何があっても死ねば終わるだけの話」という安堵と共に、「何事も無意味ではないか」という虚無感を与える両面価値的なもので、つまりは開き直りのようにすっきりと精神を安定させることはなく、常に自家撞着の内に自らを置き続けねばならないことになる。理詰めで考えようとすればするほどに矛盾は拡大し、自殺を肯定する理由はいつしか堂々巡りとなる。

自殺という解決策を思い付くに至るには、途方もなく巨大な絶望や無力感が作用して生まれる虚無感があるように思われる。「このどん底の状況はどうにもならない/できない→何をしても意味がない」という図式だ。そこから「何をしても意味がない→生きていても意味はない→死ぬのが合理的である/ましである」と続く。衝動的にではなく熟慮の末に"自殺"に辿り着いた者は誰もが虚無主義者になっているのではなかろうか。そして一部の者は自殺を決行し、その一部は死を遂げ、残りは生き延びる。運悪き生存者と決行さえしなかった者たちは徹底的な虚無感のもと、慢性的自殺モードで生き続けていくことになるのだ。

一つの選択肢としての自殺を真っ直ぐ見据えた時点で、自殺志願者の目に映る世界は非自殺志願者のそれとは大きく異なったものになる。まず第一に、人間が生きるための理念的な<常識>がどうしても理解し難いものとなる。第二に、周囲や社会を斜めに見るようになる。そして、何をしようとも傍観者のように自身を見つめるもう一対の視線が生まれる。
「全ては無意味だ」と悟ってしまっている時点で、例えば目標を達成するための弛まぬ努力であるとか人類の生活をより良くしていくことなどといったものが、おしなべて不毛で卑小な営みに感じられてきてしまうのである。どうせ自分に限らず、誰だって死ぬのは自明ではないか。どんな大問題が起ころうとも死んでしまえば全て解決するわけであるから、博愛精神や社会倫理もただただどうでもよく、意味を為さぬシロモノとなる。それらの<意味不明なシロモノ>を中心にして動いていく社会はまた同様に意味不明であり、慢性的自殺志願者は何か根源的な違和感を抱えたまま、そのような社会のど真ん中にぽつねんと佇んでいるほかはないのだ。

ところが、ひっそりと自殺モードに切り替わった人間がその日を境にして俄に引き籠ったりすることは稀だ。何をするのも無意味ならば何もしなければいいのに、それよりもとっとと死んでしまう方が自らの論理を完結させるために"正しい"行動であるように見えるというのに、多かれ少なかれぎこちなさは伴えど、彼/彼女は今までと同じ生活を続けるのが普通である。突然競争から降りてしまうこともあまりないだろう。熱意を失ったようには見えるかもしれないが。

これが僕の言う"慣性"に他ならない。今までこんな生活を続けてきたのだから、ただ何となくまた続けていくだけの話だということ。正に運動の第一法則みたいなものである。慢性的自殺志願者には、運動を止めるに足る逆方向の力を与えるもの(=死に踏み切る切っ掛け)もないが、加速させる原動力(=生きる理由)も同様にないのだから。常に心のどこかは冷め切っており、"不毛"な社会を渡って行く自分を周囲の人間たちと同じ卑小なものとして眺めている。自家撞着の原因はここにある。今までと同じように生活に意味を見出そうとする視線と、それには何の意味もないと宣告する虚無的な視線の共存。けれどもそれらはまた、不思議なことに釣り合ってもいるのだ。

僕にとっていま、生死の問題とはサイコロの相対する面に記された数字のようなもので、結局どの対の面を見ても和は7であり、どう振るかで生死のどちらに傾くかが決まるような、そんなイメージだ。その賽は不安定な台の上に置かれているために、とある方向から少し力を加えるだけで容易に転がってしまい、数字は変動する。たかがサイコロ! それでもやはり出た目に一喜一憂してしまうのが、どうにもこうにもやるせない。

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駄文許すまじ―文体考

家系の影響だと思う。本を読んでいると、文章の内容よりもまず文体が気になって仕方なくなるのだ。悲しいことに、小学生のときからそうだった。文字が読めるようになったくらいの頃から、文学科卒の両親に文章について叩き込まれ続けたせいに違いない。因み彼らは文学科の他にそれぞれデザイン学科と写真学科を出てもいる。お陰様でCIデザインと写真にもやかましくなってしまった。
タイトルを「悪文」でなくわざわざ「駄文」としたのにも理由があって、悪文は何とか耐えられるが駄文は耐え難いのである。ここで悪文とは回りくどかったり説明がヘタクソで解りづらい文章のこと。そして駄文はただただ文の書き方がヘタクソであるもの。解りづらいなあ。(笑)
今まで誇張ではなく数え切れないほどの本を読んできたが、幸運にも読み進めるのが苦痛なほどの駄文には滅多にお目にかかったことがない。何故か今日は思い立って、印象に残っている駄文を羅列してみることにした。

・山田悠介
大昔、厨房の頃だと思うが、クラスメートが「これ好きそうだよね」といって貸してきた本が『リアル鬼ごっこ』であった。もはや話はほとんど印象に残っていない。こんなヘタクソな文章を出版社はよくも本にする気になれたなあという呆れだけは未だによく覚えている。小学校で小説を書くのが流行ったことがあったが、あれで僕が添削(?)してやっていたクラスのある男子が書いた文章にそっくりだった。つまり小学生レベル。真面目になるべきところで口語を用い、"…"をやたらと多用し、且つカッコイイ文章を書けたと得意満面になっていることが容易に想像される文面である。あの文体で延々と読まされていくのは拷問の域だ。

・ナルニア国物語のどれか
これは消防時代の読書録。親が買ってきた岩波少年文庫版のナルニア国物語シリーズのうち一冊が(冒険ファンタジー系は好きではなかったのに!)、確か"神"という単語が出る度に「神のみぞ知る」だか「神は偉大だ」だか何だったかは忘れたが、そういった一文をいちいち括弧書きで付け加えていた。予想外のしつこさに数十ページで見事挫折。小学生を駄文で挫折させるとはある意味で天才的ではないか。

・法医学現場の真相
我が家にある唯一の祥伝社新書で、内容が面白かったので読了はしたが、同じ語尾が続くと気持ち悪くなる標準見本のようだった。とにかく「〜のです」が多い。この本ではなくどこか別の所で読んだとある文章でも「〜のである」が無闇と多用されており、最終段落では一文を除いて全てが「のである。」で終わっていた。この語尾、人気なんだろうか。「〜だ」や「〜である」で置き換えても全く意味も雰囲気も損なわれない部分はそれらで置き換えてしまえばいいというのに…と思ったら、「〜である」もうっかりすると多用しがちな語尾だということを思い出す。

・太宰治
こちらは読点を多用しすぎるせいで、読んでいると息が切れそうになる(別に音読しているわけではないが)。文節ごとに読点を入れているようにさえ見える。僕は真面目に文章を書くときには句読点ひとつひとつにさえ心を裂いているもので、句読点の位置や数にもやたらとうるさい。これは趣味の問題と言われればそれまで。

・悲しみよ こんにちは (朝吹登水子訳)
超有名なサガンの処女作。僕が読んでおこうと思ったのも、有名すぎて古典になりそうだというそれだけの理由だ。それでブックオフに探しに行ったら、運良く100円で手に入った。ところが訳がひどい。今まで見た中で最もひどいレベルに入る教科書訳である。"教科書訳"は解ってもらえる気がするのだけれど、一般的な英語の教科書に付されている直球の直訳のことだ。
以下に朝吹によるひどい直訳を挙げてみる。

「あなたはいま流行の考えを持っているのね。でも価値のない...」
「私はエルザの喜びを覚えている」
「私はこの期間について急ぎ足で通り過ぎる。なぜなら、探求する結果、自分自身を圧しつぶしてしまう思い出の中にふたたび落込んでしまうことを怖れるからだ」

今適当にぱらぱらと本を捲って見つけたものである。こんなのが一冊分続くのだ。耐えられないったらありゃしない。そんなもので、読了したかしていないかも忘れたが、とりあえずこの新潮文庫版は僕が13, 4の頃からずっと本棚に放っておかれていた。
昨日行ったブックオフの100円コーナーで、河野万里子による新訳版を見つけた。まだ捲ってみた程度だが、随分訳はましになっているように思う。名訳とはさすがに言えないものの、普通レベルにはなっている。例えば上に挙げた三例はこのように改善されている。

「今ふうの考え方ね。でもくだらない」
「エルザが喜んだのを思い出す」
「この時期のことは、急いで通りすぎよう。あまり考えると、また思い出のなかに落ちていき、打ちのめされそうで怖い」

上の旧訳と並べると何だか名訳に思えてきてしまう(笑)。

まとめてみると、"駄文"は「文章の流れをぶち壊す一文」「原文の雰囲気を無視した翻訳」「語尾や句読点など技巧的な問題」に大別できるようだ。
修辞技法については好みの問題になるかもしれない。たとえば史的現在(過去形を使うべき所に現在形を使う)は特に好き嫌いが分かれるのではないかと思う。史的現在を多用する人にはいしいしんじや池内紀がいる。僕はこれが凄く好きなのだが、時制の不統一が耐えられない人も少なくないだろう。しかしそれは誰が間違っているわけでも正しいわけでもない。ただそういう修辞技法があるだけの話だ。

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群衆の肖像

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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