InAequabilitas

Date : 2012年03月27日

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断片 (:regressus in infinitum)

無限後退は不毛である。無意味である。しかしだからといって、無視して差し支えないというわけではない。確かに僕らは"日常生活を営むために"ある程度のところで思考を止めている(所謂日常生活とは一体何なのか?何故それのほうが重要だというのか?そもそも何を以て重要とするのか?無限後退がまた始まった!けれども置いておこう)。しかしその"思考終着点"がヒューリスティックなものに過ぎないということを自覚せねばならない。ヒューリスティックであるのは構わない、しかしそれを真であると錯覚するのは重大な誤謬である。書いてみれば至極当然の事、けれども敢えて書くのはどうもこの基本的な事を忘れている輩が多いようだから。
勿論僕は、自分が用いている"真"や"誤謬"が論理学の用語であり論理学を基礎づけるものが何であるか"語り得ない"らしいということも判っているし、故に上のステートメント自体ヒューリスティックなものであるのも自覚している。
ここ暫くの間、哲学しようとすると一定の部分まで思考した所で「だからそれがどうしたというのだ、僕には(人間には)恐らく何も知り得まい、どうせ結局みんな死んで消滅するのだ」という自らの声が横槍を入れる。この思考停止は鬱病の兆候か、或いは単なる僕の惰性であるか。
無限後退といえば、知人が師事していた日本語教師のエピソードを思い出す。彼は哀れなほどに真面目な人間だったそうだが、例えば生徒が「"おはよう"って何ですか」と質問をすると(知人は超初級クラスにいた)、彼はまず「朝の挨拶です」と答える。初級クラスであるので挨拶とは何ぞという質問がまた飛び出す。すると彼は次の日に分厚い辞書を数冊教室に抱えてきてこの果てしない質問に一つ一つ答えを出していこうとする。それが何日も(?)続いた挙句に「もうこの問題はここでおしまい!この話はなし!終わり!」と開き直るのがいつものパターンだったのだとか。しかし確かに、外国語の初級学習者には基本的な問題を説明するのが何より難しい。特に他の言語を使う事が出来ない場合は。
一体何だって周りの人間は"程よい"ところで遡行を止めることができるのだろう?論拠を求めるのは僕の良い習慣であるかもしれないが、障壁になっているとも言える。つい最近も知人に"君は自分の言ったことに逐一論拠を示そうとするがために、話している途中にしばしば逆戻りして聞き手にとって理解しづらくなる"と指摘されたばかりだ。文章なら書き直せばいい、しかし話すのにそうは行かない。彼の言ったことは100%、いや500%くらい真実だ。かつて数学が苦手だった頃、僕は幾何学の教師に"あなたの証明は砂上の楼閣ですよ"と注意された。これが切っ掛けで僕は数学の証明が書けるようになったし、他人を説得するためには自らの主張に論拠を示すことが重要だと認識した。だがあまりそれに忠実でありすぎるために却って逆効果になっているのかもしれない。けれども僕にはどこまで論拠を示せば十分なのかが掴めない。だから一対一の議論(論戦)には強くても、弁論はどうにも駄目だ。例えば法制度の改革について論じているというのに、僕ときたら逆転クオリアの話をし始めそうなのだから!

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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