InAequabilitas

Date : 2011年11月

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「未来はない?」の補足

本当は前の記事の追記にしようと思って書いていたのに、思ったより長くなったために独立。そんなに長いわけでもないのだけれど。


小浜氏は『やっぱり、人はわかりあえない』で、未来の存在についてこう言っている。
(前略)…時間はあらゆる現象を現象として成立させる唯一の条件ですから、それについて言及しようとするやいなや、時間のなかにあらかじめ包摂される概念を用いざるを得なくなり、これらの概念的なピースの綜合によって「時間」を組み立てる試みは失敗することが目に見えています。…(中略)…そこで、「未来一般がある」という命題は、私たちの実践的な要請としてその正しさが保証されると考えるほかはなくなります。それがたとえ信念や概念にすぎないとしても、どんな例外もなくあらゆる人に共通した信念や概念なのだから、そのことに基づいて、「いまだない」というあり方として「ある」という言い方で、「未来」に対して、その存在の権利を保証してやってかまわないと私は思います。

何だこれは。第一「どんな例外もなく」の根拠は何であるのか。まあこれは重箱の隅を突くようなものだから置いておこう。とりあえずこの部分を要約すると「未来がその一部として含まれている"時間"は全ての前提だ。疑うと面倒な事になるから未来もあるということにしておけばいいんじゃないか」ということではないか。こんな乱暴な話があったものなのか。「深く考えすぎると面倒だからとりあえずそう仮定しておこう」というのは日常生活の至る所に存在している。僕だって何だかんだ言いながら(下手糞なりに)そうやって世渡りしているものだ。
しかし、この引用が飛び出したのは「未来はあるのか」と大真面目に哲学的な議論をしている最中である。喩えれば「πの正確な値は何か、スパコンAの計算値が正しいのかBのほうが正しいのか」という議論をしているのに「計算が面倒だから3でいいじゃない」と言い出したようなもの。全世界の人間が算数の問題を解くのに"実践的な要請として"3を円周率として使用していようが、それは(正確な)円周率が3であるということを証明する事にならないのは明々白々だ。こんな愚劣な論理をさも立派そうに振りかざしているのだから噴飯ものである。

但しその後に現れるこの引用には同意すると言っておこう。
神が存在するという信念を持つ人たちにとって、まさしく神は、それ固有の仕方で存在するのです。なぜなら、「神」という言葉(概念)をつくりだしたのはこの人たちであり、彼らがその存在を確信しきっているからこそ、そういう命名行為が可能だったからです。
「にとって」が途轍もなく重要である。二文目は実はどうでもよい。信じるも信じないも何もかも、本当は全て個人の問題なのだ。

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未来はない?

中島義道氏は著書の中で頻繁に「未来はない」と書いている。『時間を哲学する』(講談社現代新書)では一章を割いてそれを説明しているし、『やっぱり、人はわかりあえない』(PHP新書)においては小浜逸郎氏との第6書簡でこの問題を取り上げて議論している。僕はだいたい中島氏の考え方に賛同しているが、何だか初めて読んだときから引っ掛かるものがあるなあと感じていたので、今日思い出した折によく考えてみた。
ところで僕の考えを書く前に、まず問題の説明を。「未来はない」と言うと十中八九「そんな悲観的になってどうするの」なぞという的外れな応答が返ってくるが、自暴自棄になって「こんな駄目な俺に将来があるわけがない!」とか言っているのとはそもそも話が違う。主題は人生計画ではなく哲学である。人生計画は"一応"未来があると仮定した上で「これからどうする?」という問題だが、一方こちらの関心はその"一応"を取り去った上で果たして「未来」なるものは現在あるのかということにある。

結論から入るが、結局未来はないのだろうか?僕はあるのではないがないのでもないと言おう。何故か?それは何よりも初めに「未来」の定義が曖昧であるからだ。
上述の『やっぱり、人はわかりあえない』でもこの問題は顕著である。中島氏は具体的なもの(事柄)として未来を捉えている。たとえば彼のいう未来とは「日曜日に高尾山にピクニックに行くこと」や「日航機が墜落すること」である。対して小浜氏は未来を観念として、たとえば神の存在と同じように捉えている。中島氏は「明日は晴れるから高尾山に行く」というのを"未来にこうなるであろうと現在思っていること"と見なすが、小浜氏にとってそれは未来の"概念"を理解している事に他ならないから、つまり未来は(概念・観念として)存在しているのである。これこそ彼らが「わかりあえない」理由なのだ。甲と乙が「佐藤」という人間について話しているとき、甲が「佐藤栄作」を想定しているのに乙が「佐藤愛子」を想定していたら話が通じないのは当然である。どちらにとっても相手が訳の解らない事を喚いているようにしか見えないのだから。

しかしそれ故にあるのでもないのでもないとすぐ結論づけるわけにはいかない。どういうわけでそう言うのかというと、解り易く表現できる気がしないので比喩を使って説明してみる。論点のすり替えとか言わない!(苦笑)。
たとえば未来を胎児であるとする。妊娠していない現時点においては胎児は"ない"。だが現在もう既に胎児を構成する(であろう)素粒子は宇宙のどこかに散らばっている。無作為に素粒子を選び出した所で、(x単位時間後に)それが胎児になるか衣服になるかは知る由もない。つまり未来の要素は常に存在しているのである()。ただ、「要素があるんだから未来はある」というのはどうなのか。これは定義しなおす外にない。
中島氏は「今日子供が誘拐される事を知っていたら、朝子供を学校に送り出したりするわけがない」という例を挙げている。要するに、子供が誘拐されるという未来は「朝子供を学校に送り出した」ときを"現在"に据えた時点では存在していないというのだ。僕が何となく同意しながらもいつも引っ掛かっていたのはここであった。これでは「未来を予知する事はできない」という論証にはなっても「未来はない」という論証にはならない。
とはいえ、やはりどちらかといえば「未来はない」というのに近いのではないか。今手元に単体のナトリウムと塩素ガスがあったとして、それを「ここに食塩がある」と宣う御仁はいないであろう。結局のところ、あるのはただナトリウムと塩素ガスに過ぎない。食塩は今現在どこにもないのである。


: これは過去の存在問題にも応用できる。過去にある故人を形作っていた素粒子は今も宇宙のどこかに存在している。しかしかつて生きていたその人物という単位としては存在していない。

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キバナキョウチクトウ

汚染に強く育て易いことからか、夾竹桃には色々な園芸種が作り出されている。花色はもとピンクと白しかなかったのが、昨今では真紅だの黄色だのという(夾竹桃らしからぬ?)色合いのものが出てきているのらしい。(関係ないが、園芸種のヒガンバナにも紫やピンクのものがあるそうだ。何だか想像しにくいけれど…。)
しかしタイトルのキバナキョウチクトウは黄色い夾竹桃とは全くの別物である。名前が紛らわしくていけないが、属すら異なる植物なのだ。だから花の形も植物全体の印象も随分と違っている。とりあえずまずは写真を。
thevetia_peruviana(以下、画像は全てクリックで拡大)
キバナキョウチクトウThevetia peruvianaはキョウチクトウ科キバナキョウチクトウ属(テベティア属)の半耐寒性常緑低木或いは小高木で、ラテンアメリカ或いはインドの原産である。花色はオレンジ色と鮮黄色とがある。花期は5-12月と長く、完全に花開いた状態でも上のように半開きとなる。花弁は左巻きに重なり、長さ5-7cm・幅1.5cm、花冠は漏斗状である。花序は集散花序で枝先につく。花は鐘状で芳香がある。萼は三角形で五深裂する。雄蕊は五本あり、花糸に銀白色の繊毛が生えている。子房は2室に分かれ、柱頭は二裂する。
果実は径2.5-4cmで、初めは緑色だが熟すと浅黄色(濃い赤とも)に変化する。形は扁平な三角形球状というか何というか、何だか形容しがたい形をしている。種子は黒色で両側が膨らんでおり、硬い。果期は11月から翌年の2月である。
気温が高く、湿潤な土壌によく生育する。実生で繁殖させることができる(冬に蒔くと初夏に発芽する)。樹高は低いものでは2m、高くて5mにもなり、枝を折ると乳液が出る。葉は線形から線状披針形で互生し、光沢がある。柄はなく、長10-15cm、幅5-12mmで革質である。枝は褐色だが、若い枝は灰緑色をしており下垂する。
thevetia_peruviana-1
全株が有毒で、特に種子と乳液の毒性が最も強い。葉の毒成分含有量は0.1%未満であるが、種には5%含まれる。毒はお馴染みの強心配糖体で、詳しく名前を列挙するとテベティンA(C42H64O19)とB(C42H66O18)、ペルボシド(C30H44O9)、ネリフォリン(C30H46O8)、ルボサイド、ペルシチン、テベネリイン(C30H46O9)、ケルベリン等である。
ThevetinAThevetinB
PeruvosideNeriifolin
Theveneriin

これらの成分は心筋と自律神経系に作用し、中毒症状としては口腔の灼熱感・悪心・腹痛・嘔吐・下痢・頭痛・昏睡・瞳孔散大・心臓麻痺等がある。時には電気的除細動(いわゆる電気ショック)さえも効かない心室細動を起こす事があり、これでは確実に死亡する。
種子一粒で死に至る可能性もあるというが、大人では種10粒ほどで致命的となる。葉をハーブティーに混ぜたために中毒した事故がある(患者は大人)。因みにスリランカ北部では種の服用によって自殺する者が後を絶たないという。毎年1000例ほどそういった事例があり、そのうちでの致死率は10%以上である。漢方薬では強心剤として用いられるが、長期にわたると成分が体内に蓄積し、ジゴキシン等と同様の副作用を引き起こす(不整脈、アダムス・ストークス発作等)。

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駆け引きについて

利害関係の衝突する相手を信じようとするなど狂気の沙汰だ。その利害関係が具体的でも抽象的でも結論は変わらない。君が(本当に)誠意を持って応じようとも、相手は君の誠意を信じることはないし、まず相手が誠実に対処してくる可能性もほとんどない。それは逆方向にも言える。つまり相手が実は誠意を持っていても君はそれを信じられず、みすみす勝利を手渡したりせぬように相手を欺こうと身構えるだろう。駆け引きとは結局のところ騙し合いでしかない。それは虚言か詭弁か、或いは脅迫であるかもしれない。

誠実さは常に権力の下に組み敷かれる。誠実な人間が勝ったのだとしたら、それは話術で勝ったのだ。話術やレトリックとは何でもないような言葉を美麗に飾り立てて途方もなく価値のあるものに見せかける技術であり、やはり一種の欺騙である。嘘を言わないからいいのだと言うならば、詭弁も全く変わらない。詭弁の意図は他者を欺く事にある。単に間違っただけの論理構成は誤謬なのであって、そのような悪意を与えて初めて誤謬は詭弁となる。

ただ未処理の事実のみを以て権力や強弁に打ち克つ事は不可能だ。誰が屑鉄を持って戦場に赴くであろうか。そうだ、それが鉄である事に間違いはない。しかし鉄は打たれて刃物とならなければ相手を斬ることはできないということはどんな阿呆でも知っている。屑鉄の力量を信じて疑わぬ人間は単なる無知な狂信者である。

どんなに柔和そうに見えようが、相手は虎視眈々と君の喉を切り裂く機会を伺っている。妥協など無意味なのだ。それは双方ともが犠牲を出しながら結局誰も目的を遂げられていない状態に他ならず、また妥協を許すということ自体が相手に―たとえ一部分であれ―屈したという意思表示である。君は和諧社会を築くために駆け引きの場に立ったのか?違う!自らの利益のためとは言い切れずとも、少なくとも相手を攻撃しその目的の達成を阻害するためにいる。それを見失ってはならない。自らの中に、また相手の内に存在する敵意を見据えなくてはならない。欺くべきは相手であって自分自身ではないのだ。備えよ!


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インドソケイ - プルメリア

plumeria_rubra花の美しい有毒植物がその美貌を隠れ蓑にして、何でもないような顔で人間に愛でられているのを見ると不覚にもにやっとしてしまう。無邪気に"可愛い花"を髪に挿したりしている相手に「それ、毒草だよ」と言ってみたときの反応ときたらなかなか面白いものだ。「毒」というと多くの人間は「近付くだけで危険!」な印象を持っているようで、自分の持っているのが毒草と判明した瞬間「ええ?!これ大丈夫なの、私どうなるの?!!!」みたいにパニックに陥ることもしばしば。しかし大抵は大した毒などはなく、普通に扱っていれば酷くて皮膚炎程度のものなので別に相手を心配してやっているわけではない。単に面白がっているだけである(笑)。
plumeria_rubra-1プルメリアもそういった花のうちのひとつで、有名なところではハワイのレイに使われているのだが、有毒であると知っている人は極僅かではないだろうか。だがこれが引き起こす皮膚炎は意外と面倒なのらしい。古来から生薬にも用いられているほどのれっきとした"効用のある"植物であり、みだりに毒草呼ばわりしているわけではないのだ。

plumeria_rubra-2メキシコ原産の高さ5-7mになる落葉高木。P.obtusa等のよく似た別種に常緑であるものもある。キョウチクトウ科プルメリア属(学名Plumeria rubra)。ふつうプルメリアと呼ばれるものはこれを指す(プルメリアは本来プルメリア属の総称)。"フランジパニ"のほうが耳慣れているかもしれない。互生する葉は厚く紙質で、長楕円形から倒披針形をしている(先鋭・基部は楔形)。葉柄の長さは4-7.5cmほどで、葉の長さは20-40cm、幅は7-11cm。側脈は30-40対ある。

plumeria_obtusa5-10月、枝先の集散花序に回旋状の径約5cmの芳香ある花をつける。花色は白で内側が黄色いものや、赤みを帯びたもの、或いは完全に赤いものなど様々。白花のrubraと別種のobtusaの区別が難しいのだが、葉の先端が丸くなっているほうがobtusaのはずである(右の写真)。原産種はより花弁が細く、色は赤に近い濃い桃色をしている。

plumeria_rubra-1花冠と萼はいずれも五裂し、萼片は小さく卵形で花冠の裂片は狭倒卵形になる。花冠内部には柔毛が密生している。蜜はない。雄蕊の数は5本で、花糸の長さは非常に短い。雌蕊の花柱の長さも同様に短く、柱頭は楕円形で先が二裂する。扁平な種子は歪んだ楕円形で、膜質の翼(長2cmほど)を持つ。果実は18cmほどの莢で、それぞれに種子が20-60個入っている。果期は7-12月だが栽培種で結実することは稀であるため、葉を取り除いた枝を用いて挿し木で増やす。湿った土壌に挿すと腐り易いので水気を切った土に挿さなくてはならない。本当は実生でも繁殖させやすいのだが、そもそも種子が熟する事があまりないため仕方ない。

plumeria_obtusa-1全株に含まれる乳液にプルメリシン・プルミエリド・α-アミリン・β-アミリン・1a-プロトプルメリシン等を含有し、皮膚につくとなかなか痕の消えない炎症を起こす。プルメリシンC15H14O6は結核桿菌607に対する抑制作用を持ち、有機溶媒にはよく溶けるが水にはほとんど不溶である。プルミエリドには便通をよくする作用や利尿作用もあり、マウスに対するED50は0.12g/kg(0.3g以上で利尿作用が現れる)。ほかには、樹皮・葉・根皮等からの水による抽出液がマウス、ネコ、ウサギ、モルモットに対する局所麻酔作用が観察されている。


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Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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