InAequabilitas

Date : 2011年08月

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痛覚考

今まで体験した(肉体の)痛みに順位をつけるなら何が上位に上がるだろうとか考えてみる(誰得)。

3番は剃刀を寝かせた状態で皮膚を引っ掻いた傷(剃刀負けみたいなもの)を、アルコールを染み込ませたざらざらのガーゼで擦ったときの痛みじゃなかろうか。説明がとてつもなく解りづらいが、広面積の剃刀かぶれをアルコール漬けの麻布でがしがし擦っている状態と想像してもらえばいい(やっぱり解りづらい!)。三重に痛いのだ。ただでさえ痛い傷、滲みるアルコール、そしてヤスリの如き布!さすがに痛過ぎて二度と"剃刀負け型"の自傷はしていない。いや痛過ぎてというよりは、切創のような潔い痛さ(?)でないのが気に食わないからかもしれない。それから地味に痛み続ける割には血が全くと言っていいほど出ないのも気に食わない。つまるところはとにかく気に食わないのである。

化膿した傷口を塩漬けにするときの痛さも半端ない。2位に推す。そこらじゅうイラクサまみれの山奥に行ったときのことなのだが、脹脛を変な虫か何かにやられた所が水泡になり、そうこうしているうちに破れてしまった。それも一カ所ではなく数カ所もある。しかし衛生条件は理想的ではない。傷を洗おうにも水道の水はろくに出ない。道端の細流で洗うのが一番だが(たぶん水道水よりも清潔)、地元の人々が飲み水にしているそれに膿を流すのもどうかと躊躇われる。かといってどうにかしないわけにはいかない。アルコールなどあるわけもないが、食事を出してくれる所に行けば塩は必ずある。ということで塩を醤油皿一皿分ほどもらい、気長に傷口を塩漬けにすることとする。アルコールよりも良い消毒方法ではないかと感じる。但し、滲みて痛いと評判(?)のアルコールを遥かに凌ぐ激痛に耐えるという代償がつく。どれくらい痛いかというと、筋肉の不随意運動が間欠的に起こるくらい痛い(要は痙攣するというわけだけれど)。当たり前だが、塩漬けの痛さは傷の深さと開いている面積に比例する。膿が完全に吸い取られ切るまで塩漬けにすると傷口は真っ黒に変色する。これがなかなか気持ち悪い(笑)。

一番は恐らく誰もが共感するだろうが、歯痛。そしてそれに連動する三叉神経痛。顔面の神経を全部取り除いたって構わないと思わせるほどの激痛で、更に厄介な事に(僕の場合)歯を磨く・普通の温度の水を飲む・物を咀嚼する時に当たるといった動作だけでも物凄い痛みを引き起こしていた。一旦痛みが始まると、文字通り10分は動けない。虫歯になったことはあまりなく、歯科にかかったことも人生に5度あるかないかだが、中学の時にやられたこれはきっと一生忘れないことと思う。麻酔注射を本気で欲しいと思ったのは後にも先にも(先は言い切れないが…)あのときだけだろう。

拷問にかけられた事も癌になった事も、四肢を切断する羽目になった事もない僕が並べてみた痛みの体験だが、書いてみればあのひどい痛みもまるで他人事のようである。そういえば骨折はしたことがあるのに非常に痛かったような記憶はない。むしろ眼科で視力検査の前にさした目薬(散瞳剤)の方が痛かった。
それから、身体が痛みに適応するというのは本当のこと。同じ所(左前腕内側)を繰り返し自傷していた頃、初めは痛くてごく浅くしか切れなかったのに段々と深く切っていってしまう事に気がついた。そのうえ、それさえも大して痛くなく感じる。考えてみれば随分と危険なものだ。現在は腿に移行したので、ちょっとやそっと深く傷つけた程度では大きな動脈に触れる事はなく安全…だと思う…。
ついでにもうひとつ最近の発見。古傷のない皮膚とケロイド化した古傷とでは、むしろ古傷(ケロイド)を切りつけるほうが痛みは少ないのだ。さすがにまだ開いている古傷をもう一度切りつける時はかなり痛いが。


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否定・拒絶の言葉20

たった一言で一人の思想体系をまるごと拒絶する事のできる、驚くほど効率的な言葉をお教えいたします。誰かが面倒そうな哲学談義を始めようとする時にも効果的。わずか一言投げつけるだけで、相手は間違いなく喋る気を全く失う事でしょう。相手が話そうとしている内容のせいであなた自身の世界観がぐらつくのを防ぐ事もできますよ。所詮は他人の戯言なのです。そんなものにだらだらと付き合っていないで、もっと"為になる"ことに時間を費やしましょう!


「素直になりなさい」
「そんな事言われてもねえ(苦笑)」
「あの立場になったことがないからそんな事が言えるんだ」
「そんなんで生きていけると思ってる?」
「視野を広げてごらん」
「そんな深く考えてどうするの」
「本の受け売りばっかり」
「そうかわかった。ところでさ…」
「いつも自分の信念通りに動けるわけじゃないんだから」
「もっと為になる事しない?そう小難しい事考えてないで」
「本当はそんなふうに考えていないんでしょう」
「そういう専門知識ないから判んない」
「もう少し年を取れば考えも変わるよ」
「何か嫌なことあった?」
「ふーん、頭いいんだね」
「君には解らないだろうけど」
「すごく考えさせられるよ」
「そんな理想論」
「はは、哲学者ごっこもなかなか面白いね」
「いずれ解ってくれると信じてるよ」

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断片

人生で唯一、確かに良いのは死ぬことができること。なおかつ、死ねばあらゆる知覚を失い、思惟する者としての自分は無に帰するということ。

今この瞬間にも膨大な量の人間が生まれ、同時に同じくらいの量の人間が死んでいくのかと思うとぞっとする。何と不毛な世界!

珍しく幸福な夢を見た。しかし夢の中で「でも結局夢なんだろう?所詮夢さ」と冷静に絶望している自分がいた。なかなか興味深いじゃないか。

否定され続ける。僕は否定され続ける。そして何も語らずに僕は死ぬ。

好奇は侮蔑より憤怒より遥かに恐ろしい。それは肯定に擬態した完全な否定であって、反駁を許さない。対象はそれによって自尊或いは希望、その他ありとあらゆるものを粉々に打ち砕かれる。

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オオミフクラギ―自殺の木

[最終更新: 2012 08/13]
毒を持つ植物は数多あり、そのうちの一体幾つが自殺に用いられたかは知る由もない。東南アジアの少数民族には冶葛、日本では鳥兜、或いは僕がかつて飲んだ夾竹桃。しかしそれらのいずれも、"自殺の木"という名称を得ることはなかった。

キョウチクトウ科ミフクラギ属の常緑高木、オオミフクラギ(Cerbera odollam L.)は英名を"Suicide Tree"という。正真正銘の"自殺の木"である。インド・南アジア原産で、地域によって"Pong Pong"、"Buta Buta"、"Bintaro"、"Nyan"、"Othalanga (malam)"、"Kattu arali"、"Famentana"、"Kisopo"、"Samanta"、"Tangena"とも呼ばれる。"毒林檎(Poison Apple)"の別名もある。
湿地に多く自生する。集散花序を形成し、夾竹桃に似た白い五弁花を咲かせる。葉は夾竹桃というよりはプルメリアの葉に似ているように思われる。どちらにしろ、キョウチクトウ科特有の深緑色で細長く葉脈の間隔が狭いという点には変わりない。未熟な実は緑色の小さなマンゴーに似ており、熟すと赤色になる。長さ約2cmの卵形の種子ははじめ白く、空気に晒される事で紫色或いは茶色・黒色に変色する。全草から乳液を分泌し、これに触れた手で眼を擦ったりすると腫れる事から、ミフクラギ=目脹ラ木の名がついた。
cerbera_odollam種子をはじめとする全株にケルベリン(C32H48O9オレアンドリンと分子式が同じ)などのアルカロイドを含み猛毒である(これは沖縄県に生育するミフクラギCerbera manghasにも含まれている)。ケルベリンはジギタリスの毒ジゴキシンに近い配糖体で、心筋のカルシウムチャネルを阻害する。この作用のため、摂取すると心拍が不安定になり(或いは弱く遅くなり)、最後には呼吸困難に陥って死に至る。その他の中毒症状には悪心、嘔吐、下痢、四肢の麻痺、全身の冷汗等がある。バーベキューの串に枝を用いた事による中毒事故(死亡)が起こった事もある。

cerberinまた、ケルベリンは非常に検出されにくい。故にインドでは毒殺に頻繁に用いられる。毒を含む種子はそのまま食べると苦いが、強めのスパイスに混ぜてしまえば味はわからなくなってしまう。これも、オオミフクラギが自殺によく使われる理由の一つだ。法医学の世界でもオオミフクラギは(例えばジギタリスほどに)知られているとは言えず、オオミフクラギを産しない場所の検死では見過ごされてしまう事も多いようである。2004年にフランスのある分析毒物学研究所のチームが行った調査によると、インドのケララ地方では1989年から1999年の間に500件を越えるオオミフクラギによる毒殺事件があったと見られている。毒殺された被害者のうち4分の3は女性だったといい、推測するに家の掟を守らない(家の要求を満たさない)若妻が殺されていたのではないかということらしい。調査団のリーダー、ゲヤード氏によると「オオミフクラギによる毒殺は完全犯罪になる」とのこと。

マダガスカル中央部では神明裁判にオオミフクラギの種子が用いられていたため、死者の2%ほど(年間約3000人)がこれによって死亡していたという報告がある。1861年に国王により毒物を用いた神明裁判は禁止されたが、離島や僻地では未だに行われているとも考えられている。

因みに、現在は種子からバイオディーゼル燃料を作る研究が進行中であるらしい。
cerbera_seeds

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“いいひと”であるみなさんへ

今の世の中、実に“いいひと”が多いですねえ。どんなに辛いことがあっても前向きで、正しい行いを賞賛し、悪行には心の底から憤慨するのです。人と人との繋がりが薄れた現代社会を嘆き、いまどきの若者がないがしろにする倫理道徳を取り戻そうと努力しているひともたくさんいるようです。また個性があるのは大切なことだと学校でも教えているみたいですよ。その上みんな平等の社会を目指しているそうで、いやあみなさんはとっても“いいひと”なのですねえ。

それでも―それでも、あなたがたは疑ったことがないのですか。果たして何が本当に正しいことなのか、何が本当に善いことなのか、そもそもそんなものがあるのか、疑ってみたことはないのですか。こう言えばきっと「そんな問いが出てくる事自体、お前の精神構造が間違っているのだ」と仰るのでしょう。そうなのですか。では何を以てわたくしは間違っていると仰るのですか。どうぞ考えてみてください。あなたがたが正しいと思っていることではないものは凡そ間違っているからではないのですか。
ええ確かに、正しいものでないものは間違っているのです。そこに全く異論はありませんよ。しかしながら、あなたの“正しい”は彼の“正しい”であるとは限らないとは思われませんか。何故とお訊ねになられる?単純明快な事実ですよ。あなたは彼ではないからです。
「ああまたなんて淋しいことを言う」とわたくしを憐れんだ目で見つめておられますね。「他者の気持ちに共感することもできない可哀想な人間がいる」と思っておられるのですね。きっとそうなのでしょう。けれどもわたくしには“共感”したつもりになって馴れ合うあなたがたの方が、よほど滑稽に映るのです。いったいどうやって、“理解した”と確かめるのですか?どうやって“理解された”と確かめるのですか?あなたがあなたでしかあり得ない以上、あなたはあなたの心理の、それも一部分しか本当に知ることは出来ないのですよ。

しかしどうか思い違いをなさらないでください。わたくしは決してあなたがたの“正しい”を否定しているのではありませんよ。いかにあなたとわたしの“正しい”が食い違っていようとも、どちらも同じように正しいのです。ただわたくしにとってあなたの“正しい”は間違っており、あなたにとってわたくしの“正しい”が間違っているというだけなのです。ゆえに絶対的に正しいことというのはないのだと思われませんか。ならばあなたがたが他者に“正しいこと”をするように要求することは、そして“正しくないこと”を一概に糾弾することは、全くの暴挙であると言って差し支えないですね。

“みんな平等になる”というのは、みんなが今一番幸福な人と同程度に幸福になるわけではありません。あるていど不幸な人がもう少し幸福になり、あるていど幸福な人がもう少し不幸になることによって“平等”は実現されるのではないですか。“みんな平等”を突き詰めてゆけば、そこには純粋な社会主義が現れます。そこにおいては、富裕層が財産を剥奪され、貧困層にその<余り分>が分配されますね。これは経済的なはなしですが、その他の部分でも同じようなものです。
あなたがたが信奉する“平等”は、あなたがた自身の幸福が減少しない限りにおいて善いものだと認められているのではないですか。自分よりぬくぬくと生きている輩どもが自分と同じ境遇に堕して来ることを願っているからではないですか。自分より幸福な者が「平等に」不幸になり、自分自身の不幸が「平等に」幸福に変身することが保証されるという条件下でのみ、あなたがたは“平等”を唱えるのではないですか。あなたがたがきっと嫌っているルサンチマンに、首までどっぷり浸かっているのではありませんか。

個性を尊重するというのも、あなたがたの利益が傷つけられない限りにおいて認めていらっしゃるのですよね。あなたがたの利益がと言うと「そんなジコチューな事を言った覚えはない!公共の福祉だ!」と憤慨なさるに違いありませんね。ええいつもそう仰っていることは知っています。それでも、ご自分に一切関係のない“被害”をあなたがたは考慮されるのですか。そもそも全く関係がないのだから、つまり全く解らないのだから、考慮しようとしてもできないはずですよ。
一見して赤の他人であるような輩の行為を糾弾するのは、もしあなたの周囲の誰かが同じ行動をとったらあなたに“被害”が及ぶから、或いは面倒なことになるからではないのですか。それが厭だから、「公共の福祉を実現する」と仰りながら密かにご自分にとって都合の良い社会が出来上がることを望んでおられるのではないとあなたがたは言い切れますか。

生きている限り辛いことは山ほどありますね。それだからこそ「前向きにならなければやっていけないのだ」とあなたがたは仰ります。そうして悲しみも恨みも怒りもことごとく笑顔の裏に閉じ込めて、それが出来ない者を「空気が読めない」或いは「明るい雰囲気をぶちこわす」と嫌われるのでしょうね。
しかし、いったいどうして自分の感情を無理に押さえ付けてまで周りの空気を守らなくてはならないのですか。せっかくのいい雰囲気を壊すなというのは、周りにいる人々の(穏やかな)気持ちを尊重しろということで間違いないのですよね。そうならば、悲しんでいる人や苛々している人の気持ちは尊重されなくてよいのですか。
そしてあなたが前向き志向を善いことだと認識していたとしても、それを他人にまで要求する理由にはならないのですよ。あなたがたのいつも変わらぬ笑顔を不気味だと感じているわたくしのような人間がいたとしても、全く以て自然なことなのです。生きていればいい事もあるのでしょうが、生きていれば悪い事もあるのです。ですから前向き志向というのは―あなたがたが後ろ向きな人間を非難する時の論拠と同じく―現実を一部無視している考え方だと、お思いにはなられませんか。

わたくしは“いいひと”にはなりたくないのです。ただ自分にとって正しい事だけをしたい、いやせめて間違った事をしないようにしたいのです。“正しい”と思ったことを実行したがゆえに社会から排斥されようとも、正しい事を守り抜く限りわたくしはひじょうに清々しい気分でいます。自己欺瞞に窒息しなくても済むのは、とても気持ちのいいものですよ。
いえ、やはりどうぞわたくしの言った事は忘れて、“いいひと”として人生を全うなさってください。わたくしにもあなたがたをとやかく言う筋合いは決してないのですから…

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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