InAequabilitas

Date : 2011年07月14日

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家族観

何故家族がもてはやされるのかやはりどうしても解らない。「親子という病」(香山リカ著、講談社現代新書)なども読んだがまあ一応の解決とはなったとはいえよう。しかし本気で家族を何か信仰の対象にしているような人間(これが―僕自身の母親を含め―周囲にうじゃうじゃいるのだ!)は、何を根拠に家族至上主義を唱えているのだろうか?
家族至上主義のみならず、親子の血縁関係を疑ってDNA検査を親に迫るACみたいな輩も少なからずいるのだが、何ゆえそこまで血縁にこだわるのか。この人間は自分のDNAのうち半分と同じものを持っているという証明くらいしかできないというのに。家族至上主義も、血縁にこだわるというのも、異なる価値観と言い切ってしまえばもう何も言うことはないのだが(実際確かにそうだ)、これまた世間一般と僕の家族観との間にあるずれを痛感せざるを得ない。

僕にとって家族(親族)とは、気付いたら一つ屋根の下に生息していた人間の集団のことである。この「気付いたら」、つまり選択の自由がないというのが重要なのだ。ルームメイトなり何なりは(大抵の場合)選ぶ事ができる。ところが親であるとか子供であるとかというのはそうではない。どの親の元に生まれるか、或いはどんな子供が生まれてくるか、そんな事が判るわけもない。せいぜい生まれてくる子の性別が判るくらいだ。
それでいて生まれてくる子を無条件で愛せというのは酷な話である。保護されるためには親を盲信するように初めからプログラムされている子供ならまだしも、親には好き嫌いというものがある。生理的に受け付けられない何かも存在する事だろう。なのに「親だから」自分の子を愛するのは当然だというのは妙な論理ではないか。
また、子供の立場は更に不利だといえる。第一次反抗期辺りで親が厭だと感じても、子供が厭になったと思ったら好きに家を飛び出せる親とは違い、子供にそうする事は出来ないからだ。そして親は子供にとっては神のようなものであり、一定の年齢(人格が形成される頃くらい)に達するまでは反逆は即ち自由の剥奪を意味する。いやそれどころか、価値観そのもののうちほとんどが親の価値観の刷り込みである。幼稚園や小学校などという外部社会の影響もあろうが、畢竟自分の親と最も長い時間を過ごしているわけだから、何か全く親の価値観と相容れないものがあればそれは即座に否定あるいは封じ込められてしまう。要するに、親の価値観(初めて植え付けられる価値観)に支配されているため、外部の価値観に対する批判能力はある程度有するものの、それに較べると“デフォルトの価値観”に対する批判能力は著しく制限されているという事である。

上の論点から緩く繋がるが、「親だから自分の子供を愛するに違いない」という言説は「本当の親じゃないから自分を愛してくれないのだ」というAC(もどき)の主張と表裏を成している。本当の親じゃなかろうが養子をとことん可愛がる例だって幾らでもあるし、実の親が子供を無惨に虐待死させる事件もそう目新しいものではない。血縁ではなく好みの問題なのだ。言うまでもないが、容姿だけではなく性格なども好みの範囲に入る。推測だが、子供より孫の方が可愛いというのは「遠い者しか愛し得ない」というドストエフスキー(カラマーゾフの兄弟より)の言葉と関連しているのではないか。毎日一緒にいて可愛い部分と同程度に厭な所も知り尽くしている実の子より、あまり会いにこないため可愛い所ばかり目に入る孫の方が好意的にとられる、と。しかしそうだとすると、三世代で暮らしている家の老人の孫に対する態度は核家族のそれと随分異なる事になるが、そんな調査などした事もないのであくまでも推測に留まる。
血縁の話に戻ると、要は血縁関係の有無では何物も判断できないという事である。今いきなり「実の親(生みの親)」なる見知らぬ夫婦が現れても、想像するに大抵の人間は当惑するだけではないだろうか。そしてその眼前の夫婦には「ふむ、そうなのか」くらいの冷めた感情しか抱かないのではないだろうか。血縁は“家族の絆”を保証しないのだ。
僕自身、両親が「本物」かどうかに全く関心はない。母親の原理主義的な家族至上主義を否定する度に「本当の親だと思っていないんでしょう」というような事を言われるが、「別に本当のであろうがそうでなかろうが何だって構わない」と返すとひどく傷ついたような顔をする。きっと「そんな事はないよ、思った事もないよ。だって世界にただ一人のお母さんだもの!」みたいな答えを期待しているのだろうなあ。しかし僕にとって「世界にただ一人のお母さん」だからというだけでVIP扱いする理由は別段見つからないのである。

僕からして集団というものは遍く「何となく存在していたもの」であり(自ら進んで集団を求める事がほぼないからだが)、故にチーム・スピリットであるとか、団体への帰属意識だとか、そういったものがただひたすら判らない。国家や民族への帰属意識さえないのだ。(故にナショナリズム・愛国運動・国粋主義なども了解不能の領域に収まる。) 家族も集団の一種に過ぎない。自ら求めたのでない、むしろなすりつけられたに等しい“家族”なる代物を崇め称えよと言われても困惑するしかないではないか。
話は逸れるが、これと同じ論理で僕は命を尊いものだとは思っていない。生命は不可思議かも知れないが、尊くはないのである。気付いたら生きていただけなのに何ゆえに命が尊いなぞと宣うのか。気付いたらそうだったという理由で壁が白い事を讃えてもいいはずなのだが、何故か誰もそうはしない。

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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