InAequabilitas

Date : 2011年07月07日

CURRENT MOON

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

名前嫌悪症

僕はなぜか本名の使用に抵抗がある。それもネット上のセキュリティが云々とかいう話ではなく、ただただ感覚的に厭なのだ。本名を呼ばれるのも厭だしパスポートや保険証に書かれた名前を見るのも厭だし自分で書く(表に記入するとか)というのさえ厭である。別に本名がとてつもなく恥ずかしいとかいうのではない(いるじゃないか、「大場佳子」とか或いはミドルネームがプレシャスとか…)。普通でかつ簡潔な名前なので名前そのものが厭というのではないと思う。しかしとにかく本名の使用が厭だというのは何故だろう。
あまりに名前を呼ばれるのが厭なので、たとえば現在僕は海外在住なのだが、周囲の知人は誰ひとり僕の日本語の本名を知らない。僕が明かすのを拒むからである。日本にいた時も、書籍の取り寄せを頼むときや何かでも一切本名を記入したことはない。理由はない。厭だという以外には。

自分の名前に限らず、他人の名前にもほぼ同様の事が起きる。出来うる限り他人を名前で呼びたくない。大抵二人称で呼びかける。駄目なら名字である。名前の「くん」付け、或いは「ちゃん」付けなどはもってのほか。喩えがおかしいが、猥褻語を口にしようという時とほとんど同じ感覚なのだ。いや別に「ちゃん」が猥褻だというわけではないが。
しかもこの傾向は最近始まったわけではなく、小学校時代まで遡る。その時から他人を呼ぶ時は名前ではなく「あのう…」だった覚えがある。小学生の、特に女子は「○○って呼んでね!」というのが好きらしいが、それを無視し続けて名字で呼ぶ僕はひたすら変な奴だったに違いない。
ただ、その頃はまだ自分の名前がそこまで厭だというわけではなかった。名前に関するトラウマがあるわけでもなく、気付いたらそうなっていたのである。

自分の名前を見るのも厭というのには自己否定感情が一役買っているように思う。名称とは個を特定するものだ。個を破壊するには名称を葬らねばならない。ところが悲しい事に、そう簡単には役所も改名を認めてくれないらしい。改名したらしたで、またすぐ厭になるには違いないのだが…
それから小学校後期から中学にかけて僕は(幾度か)激変したのだが、両親は変化した僕を受け容れず「以前の社交的な/無邪気な/従順な僕」がそのうち復活してくると信じ込んでいた(いる)。三歳児神話の妄信者だから致し方ない。確かにこれから僕はまた変化するかもしれない。少なくとももう少しくらい社会に適応する人間になる可能性はある。しかし哲学や犯罪学なんぞに深く首を突っ込んでしまった以上、幼少時の天真爛漫さは決して取り戻せないと断言できる。「かつての僕」はもう二度とないのだという意味合いも込めて、「かつての名称」を抹消してしまいたいのかもしれない。

但しそうであっても、他人の名前を呼ぶのも書くのも厭という説明がつかない。実を言うと偽名の使用も「本名よりはまし」というだけで、やはり出来る限りしたくないのである。表を記入する時も、普通名前欄が一番上にあって大多数の(というか恐らく全ての)人間はまずそこから書くと思うのだが、僕は住所など下の部分から書いてしまう。そして躊躇った挙句、最後に名前(大抵は偽名)を書き込む。
これは単に、昆虫が嫌いな人間の一部分が昆虫を嫌いな理由を正確に言えないように、つまり「何故か」昆虫が苦手だというのと同じく僕は「何故か名前というものが苦手」だという結論に落ち着いてしまうものか。確かに、昆虫恐怖症の原因をフロイト心理学(笑)のように深層心理などに求めても仕方なかろう。やや尻切れの感があるが、結局それと同じだというような気がするのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ
スポンサーサイト

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

Latest Articles

Comments

Trackbacks

Link

Categories

Search

 

Counter

Current Visitors:

Archives

Mail Form

Name:
Mail:
Subject:

Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。