InAequabilitas

Date : 2011年07月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

"鬱病"の実態

擬態鬱病、新型鬱病、プチ鬱病、とまあ鬱病に「新しい」型が大量に発生している。時折DSMの大鬱病の診断基準に当てはまらないのもあるがとりあえず鬱病でくくられている…って、当てはまらなかったら鬱病じゃないだろ!
なぜこのような鬱病が増えるのか?主な原因は二つに分けられるだろう。一つ目は鬱病という疾患への認知度の上昇、そして二つ目は所謂「処方箋精神医学」というやつである。

今や「鬱病は心の風邪」というフレーズはほぼ誰もが知っている。そして鬱病が大抵どのような症状を呈するかもかなり広く知れ渡っていると言えよう。特にDSMが刊行されてから、漠然としていた精神疾患の診断が飛躍的に容易になった。大きな書店に行けばDSMそのものが置いてあるし、そうでなくともネット上に幾らでも転載されている。
一昔前までは明らかに状態がおかしくとも精神科にかかることが躊躇われたものが、今では精神科が"お悩み相談室"と化していることも少なくないようである。特にセロトニントランスポーター遺伝子が多いらしい日本人の鬱病の発症率は高いと考えられ(?)、大々的に鬱病認知のキャンペーンが行われたわけで、結果として精神科の受診者数は増えた。
ところが医者はそんなに増えないという落とし穴がある。精神科医師一人当たりの患者数は40人と言われている。他の科は16人というところでこの人数である。精神科医は増加した受診者数を処理し切るべく、一人当たりの平均診療時間を10分強に短縮せざるを得なくなる。心の風邪とはいえ、風邪ほど一筋縄ではいかないものだ。しかしぞろぞろとやってくる来診者を放っておくわけにもやはり行かない。そこでどうするか。とりあえず薬を出しておく。処方箋精神医学の誕生である。

また「シュガー社員」という言葉に代表される、だらけた若者の増加も一役買っていると指摘しておこう。新社員にいきなり重役の地位を与える会社(いきなり重役の地位を与えられる新社員)はごくごく稀なもの。入社してから(バイトにとられてから)暫くは掃除、コピーなどの雑用みたいな仕事を回されるのが普通だ。ところが自信過剰なシュガーは「自分はこんなことをするためにここにいるんじゃない!」というような不満を抱く。当然割り当てられた仕事はやりたがらない。嫌な事ばかり強要されていたら職場が嫌になるのは言うまでもない。職場にいると苛つく。辞めない場合はそれが長引く。そうすると本人或いは過保護な親が「ちょっと病院行ってきた方が…」となるという筋書きだ。
病院に行ってみると処方箋精神科医が診療してくれる。シュガーは診断書を出せとか何とか喚いて面倒なのでとりあえず薬と、それから無難そうな「鬱病」の診断書をくれる。翌日シュガーは誇らしげに薬または診断書を振りかざし、「私は鬱病なのよ!優しくしなさい!」と吹聴して回る。何だか面倒そうな仕事を分配されると「鬱病なので療養してきます。有給で」。ミスを指摘したり能率の低さを叱責すると「鬱病なんですよ!もういい死にます!」とか捨て台詞を吐き、唖然としている同僚を尻目に職場から出て行く。(で死ぬはずが、向かう先はゲーセンとかだったりする。)
彼らのつける「闘病記」なるブログを読んでみると鬱病でない事は一目瞭然だ。職場にいなければ常人以上にエネルギッシュであり、かつやたらと他罰的でそうやって人に突っかかる時もまたエネルギッシュである。鬱病らしい"しおれた感じ"がかけらほども感じられない。誰の目にも「甘え」に過ぎない事は明らかだろう。そして社会には「鬱病は甘え」という二次的な認識が広まる事となる。
ところが、本物の鬱病者というのは元来生真面目で、責任感の強い性格である事が多い。彼らは「甘え」と見なされるのが嫌なばかりに、必要なのにもかかわらず精神科を受診しないということになってしまう。本当に治療を必要としている者が治療を受けていない、いや受けられなくなっているのだ。これが最大の問題と言える。

鬱病を正しく認識する事が重要なのは勿論の事。しかしだからといって、似非鬱病が跋扈する原因となっている処方箋精神医はそうやすやすと片付けられない。医者の数は増やそうと思っていきなり増やせるものではない。また「テキトーな相談の人は来ないでください」と病院に張り紙をするわけにも行かない。"テキトーな相談"に見えて実は重篤な疾患の前兆なんていうことはざらにあるのだ。更に、DSMを暗記したからといって疾患に対して正しい認識が持てているかというと、それもやはりそうではないはずだ。どうすればいいのか。ただ長い目で見ておくしか出来ないのだろう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ
スポンサーサイト

DES

Dissociative Experiences Scale (DES)というものがある。解離体験指標とでも訳すべきか。解離性障害の程度を大まかに調べる為に用いられる一種の心理検査だ。ベック鬱病指標(BDIテスト)の解離性障害版のようなもので、28の質問からなる。スコアが30以上になると、DID(解離性同一性障害、俗にいう多重人格)の虞が高くなる。
ここで受ける事ができる(英語)。結果のページにも出てくるが、ベック鬱病指標と同様、これが絶対というわけではない。あくまで参考程度に。
追記に僕がやってみた結果。

どこかの本で読んだが、解離性障害の診断が最近増えているのらしい。増えている気があまりしない疾患でこれなのだから、鬱病の診断の増え具合は凄まじいと言えよう。震災後に鬱病者が増えるのは当然だが、そうではなくここ数年の話である。DSMが発行されてから精神疾患の診断は飛躍的に容易になった。しかしDSMに対する批判も多々ある。
次の記事で近頃増えている"鬱病"の実態を解剖してみようと思う。

家族観

何故家族がもてはやされるのかやはりどうしても解らない。「親子という病」(香山リカ著、講談社現代新書)なども読んだがまあ一応の解決とはなったとはいえよう。しかし本気で家族を何か信仰の対象にしているような人間(これが―僕自身の母親を含め―周囲にうじゃうじゃいるのだ!)は、何を根拠に家族至上主義を唱えているのだろうか?
家族至上主義のみならず、親子の血縁関係を疑ってDNA検査を親に迫るACみたいな輩も少なからずいるのだが、何ゆえそこまで血縁にこだわるのか。この人間は自分のDNAのうち半分と同じものを持っているという証明くらいしかできないというのに。家族至上主義も、血縁にこだわるというのも、異なる価値観と言い切ってしまえばもう何も言うことはないのだが(実際確かにそうだ)、これまた世間一般と僕の家族観との間にあるずれを痛感せざるを得ない。

僕にとって家族(親族)とは、気付いたら一つ屋根の下に生息していた人間の集団のことである。この「気付いたら」、つまり選択の自由がないというのが重要なのだ。ルームメイトなり何なりは(大抵の場合)選ぶ事ができる。ところが親であるとか子供であるとかというのはそうではない。どの親の元に生まれるか、或いはどんな子供が生まれてくるか、そんな事が判るわけもない。せいぜい生まれてくる子の性別が判るくらいだ。
それでいて生まれてくる子を無条件で愛せというのは酷な話である。保護されるためには親を盲信するように初めからプログラムされている子供ならまだしも、親には好き嫌いというものがある。生理的に受け付けられない何かも存在する事だろう。なのに「親だから」自分の子を愛するのは当然だというのは妙な論理ではないか。
また、子供の立場は更に不利だといえる。第一次反抗期辺りで親が厭だと感じても、子供が厭になったと思ったら好きに家を飛び出せる親とは違い、子供にそうする事は出来ないからだ。そして親は子供にとっては神のようなものであり、一定の年齢(人格が形成される頃くらい)に達するまでは反逆は即ち自由の剥奪を意味する。いやそれどころか、価値観そのもののうちほとんどが親の価値観の刷り込みである。幼稚園や小学校などという外部社会の影響もあろうが、畢竟自分の親と最も長い時間を過ごしているわけだから、何か全く親の価値観と相容れないものがあればそれは即座に否定あるいは封じ込められてしまう。要するに、親の価値観(初めて植え付けられる価値観)に支配されているため、外部の価値観に対する批判能力はある程度有するものの、それに較べると“デフォルトの価値観”に対する批判能力は著しく制限されているという事である。

上の論点から緩く繋がるが、「親だから自分の子供を愛するに違いない」という言説は「本当の親じゃないから自分を愛してくれないのだ」というAC(もどき)の主張と表裏を成している。本当の親じゃなかろうが養子をとことん可愛がる例だって幾らでもあるし、実の親が子供を無惨に虐待死させる事件もそう目新しいものではない。血縁ではなく好みの問題なのだ。言うまでもないが、容姿だけではなく性格なども好みの範囲に入る。推測だが、子供より孫の方が可愛いというのは「遠い者しか愛し得ない」というドストエフスキー(カラマーゾフの兄弟より)の言葉と関連しているのではないか。毎日一緒にいて可愛い部分と同程度に厭な所も知り尽くしている実の子より、あまり会いにこないため可愛い所ばかり目に入る孫の方が好意的にとられる、と。しかしそうだとすると、三世代で暮らしている家の老人の孫に対する態度は核家族のそれと随分異なる事になるが、そんな調査などした事もないのであくまでも推測に留まる。
血縁の話に戻ると、要は血縁関係の有無では何物も判断できないという事である。今いきなり「実の親(生みの親)」なる見知らぬ夫婦が現れても、想像するに大抵の人間は当惑するだけではないだろうか。そしてその眼前の夫婦には「ふむ、そうなのか」くらいの冷めた感情しか抱かないのではないだろうか。血縁は“家族の絆”を保証しないのだ。
僕自身、両親が「本物」かどうかに全く関心はない。母親の原理主義的な家族至上主義を否定する度に「本当の親だと思っていないんでしょう」というような事を言われるが、「別に本当のであろうがそうでなかろうが何だって構わない」と返すとひどく傷ついたような顔をする。きっと「そんな事はないよ、思った事もないよ。だって世界にただ一人のお母さんだもの!」みたいな答えを期待しているのだろうなあ。しかし僕にとって「世界にただ一人のお母さん」だからというだけでVIP扱いする理由は別段見つからないのである。

僕からして集団というものは遍く「何となく存在していたもの」であり(自ら進んで集団を求める事がほぼないからだが)、故にチーム・スピリットであるとか、団体への帰属意識だとか、そういったものがただひたすら判らない。国家や民族への帰属意識さえないのだ。(故にナショナリズム・愛国運動・国粋主義なども了解不能の領域に収まる。) 家族も集団の一種に過ぎない。自ら求めたのでない、むしろなすりつけられたに等しい“家族”なる代物を崇め称えよと言われても困惑するしかないではないか。
話は逸れるが、これと同じ論理で僕は命を尊いものだとは思っていない。生命は不可思議かも知れないが、尊くはないのである。気付いたら生きていただけなのに何ゆえに命が尊いなぞと宣うのか。気付いたらそうだったという理由で壁が白い事を讃えてもいいはずなのだが、何故か誰もそうはしない。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ

素粒子の呼び名

知人が素粒子を「つぶつぶ」呼ばわりしやがってとっても悲しいんだがどうすればいいのだろう(笑)。


そういやトップクォークとボトムクォークはあやうく「真実のクォーク」「美のクォーク」と名付けられそうになった経歴を持つ。本当は真実・美とさらに魅惑(チャーム)がセットだった。なぜかチャームだけ残ってしまったが。ネーミングセンス万歳。


しかしクォークという名称自体、由来が鳥の鳴き声だからなあ。真面目さを求める方が不可能かもしれない...

にほんブログ村 科学ブログ 自然科学へにほんブログ村 科学ブログへ

名前嫌悪症

僕はなぜか本名の使用に抵抗がある。それもネット上のセキュリティが云々とかいう話ではなく、ただただ感覚的に厭なのだ。本名を呼ばれるのも厭だしパスポートや保険証に書かれた名前を見るのも厭だし自分で書く(表に記入するとか)というのさえ厭である。別に本名がとてつもなく恥ずかしいとかいうのではない(いるじゃないか、「大場佳子」とか或いはミドルネームがプレシャスとか…)。普通でかつ簡潔な名前なので名前そのものが厭というのではないと思う。しかしとにかく本名の使用が厭だというのは何故だろう。
あまりに名前を呼ばれるのが厭なので、たとえば現在僕は海外在住なのだが、周囲の知人は誰ひとり僕の日本語の本名を知らない。僕が明かすのを拒むからである。日本にいた時も、書籍の取り寄せを頼むときや何かでも一切本名を記入したことはない。理由はない。厭だという以外には。

自分の名前に限らず、他人の名前にもほぼ同様の事が起きる。出来うる限り他人を名前で呼びたくない。大抵二人称で呼びかける。駄目なら名字である。名前の「くん」付け、或いは「ちゃん」付けなどはもってのほか。喩えがおかしいが、猥褻語を口にしようという時とほとんど同じ感覚なのだ。いや別に「ちゃん」が猥褻だというわけではないが。
しかもこの傾向は最近始まったわけではなく、小学校時代まで遡る。その時から他人を呼ぶ時は名前ではなく「あのう…」だった覚えがある。小学生の、特に女子は「○○って呼んでね!」というのが好きらしいが、それを無視し続けて名字で呼ぶ僕はひたすら変な奴だったに違いない。
ただ、その頃はまだ自分の名前がそこまで厭だというわけではなかった。名前に関するトラウマがあるわけでもなく、気付いたらそうなっていたのである。

自分の名前を見るのも厭というのには自己否定感情が一役買っているように思う。名称とは個を特定するものだ。個を破壊するには名称を葬らねばならない。ところが悲しい事に、そう簡単には役所も改名を認めてくれないらしい。改名したらしたで、またすぐ厭になるには違いないのだが…
それから小学校後期から中学にかけて僕は(幾度か)激変したのだが、両親は変化した僕を受け容れず「以前の社交的な/無邪気な/従順な僕」がそのうち復活してくると信じ込んでいた(いる)。三歳児神話の妄信者だから致し方ない。確かにこれから僕はまた変化するかもしれない。少なくとももう少しくらい社会に適応する人間になる可能性はある。しかし哲学や犯罪学なんぞに深く首を突っ込んでしまった以上、幼少時の天真爛漫さは決して取り戻せないと断言できる。「かつての僕」はもう二度とないのだという意味合いも込めて、「かつての名称」を抹消してしまいたいのかもしれない。

但しそうであっても、他人の名前を呼ぶのも書くのも厭という説明がつかない。実を言うと偽名の使用も「本名よりはまし」というだけで、やはり出来る限りしたくないのである。表を記入する時も、普通名前欄が一番上にあって大多数の(というか恐らく全ての)人間はまずそこから書くと思うのだが、僕は住所など下の部分から書いてしまう。そして躊躇った挙句、最後に名前(大抵は偽名)を書き込む。
これは単に、昆虫が嫌いな人間の一部分が昆虫を嫌いな理由を正確に言えないように、つまり「何故か」昆虫が苦手だというのと同じく僕は「何故か名前というものが苦手」だという結論に落ち着いてしまうものか。確かに、昆虫恐怖症の原因をフロイト心理学(笑)のように深層心理などに求めても仕方なかろう。やや尻切れの感があるが、結局それと同じだというような気がするのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

Latest Articles

Comments

Trackbacks

Link

Categories

Search

 

Counter

Current Visitors:

Archives

Mail Form

Name:
Mail:
Subject:

Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。