InAequabilitas

Date : 2011年06月

CURRENT MOON

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

虚無的非革命

いつ何時でもあらゆる事に対して苛立ち怒り狂っているせいか、学生運動の時代を生き抜いてきた知人らは僕を評して「学生運動に参加しそう」だとか「革命家になりそう」だとか宣う事がある。言われてみればそう言えなくもないのだが、僕としては自分はどうにも政治とは縁が遠いように感じられるのだ。科目としての政治がもとから出来なかった事はさておき(笑)、原因は恐らく僕の<共同体に対する関心>というのが限りなく希薄だからなのではないかと思っている。
集団なぞ結局個人の寄せ集めに過ぎないのだから、まず社会云々と騒ぐよりも個人について思考する事が重要ではないだろうか。それから僕は疎外的なほどの個人主義なので、他人の考え方を変えるという事は全くの無意味であるしほとんど不可能だと考える。だから僕は自分の価値観を受け容れるように他人に要求する事はほぼない。逆を言うと、他人と同じ物の見方を強要される事には我慢がならない。そういう場合に限り、僕の<実存主義>を侵さない事を他者に要求する。しかしただそれだけである。

社会制度の改革にもまるで興味が沸かず、社会貢献も強迫的なほどにしたくない。前者と後者の理由はそれぞれまた異なる。まず社会制度を改革しようと何をしようと、(僕にとって人生が無意味だという理由と同じく)何もかも虚しいのだ。故にどうでもいいというわけである。むしろ「虚しい」よりも「どうでもいい」の方が幾分か勝っているような気もする。
そして社会貢献がしたくないのは社会に対する偏執的な怨恨から来ているのではないかと思う。たとえ報酬を得ようと、社会を良くするためという目的をもって社会貢献をするというのが途方もなく厭なのだ。純粋に自分の利益の為だけに行動し、その結果として社会に貢献してしまったらまあ仕方のない事だがしかしできればそうなって欲しくないという一種の強迫観念のようなものに囚われている。社会が嫌いだから人間嫌いになったのか、はたまたその逆なのか自分でもよく判っていないが、とにかく社会が自分の功労で良くなってしまう(?)のは堪え難い。喩えるなら、とんでもなく嫌いな奴と組にされて働かされ、自分は自身の功績の為に必死に働いたのにもかかわらず、チームだからと言ってその厭な奴が自分と一緒に褒賞を授与されて喜んでいるのを見るようなものである。そして奴が喜ぶくらいならいっそ自分の分の褒賞さえなかったほうが良かったと思うような感覚である。

僕が苛立つのは大抵の場合自分自身に対してなのだ。自分の決断力のなさに苛立ち、理解力のなさを呪い、無知に呆れ返り、軽率さに激昂する。時折社会(周囲)に対して憤慨していることもあるが、それも非合理性(僕が一番赦し難い輩!)を見る時か価値観の同化を執拗に迫られる時に限られる。そして大体その非合理性は(普通では)どうにもならないもので、行動力のなさも相まって<革命>を起こそうという気には決してならない。結局ただ無益に怒り狂うのみである。行動力のなさは自分の問題なので、何も変わらぬ社会を非難する筋合いもない。ただ腹が立つからそうしているだけであって、しかもその怒りを表出させる行動力すらない。むろん腹の底では自分の都合のいいように社会が変化してくれればいいなあくらいには思っているが、これまた何という手前勝手な願望であろうか。実現する事を期待した事など一度たりともないが。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ
スポンサーサイト

なぜか哲学バトン

ふらりとやってしまった久々のバトン。

理解と誤解

他者に「理解されない」ということは当然であり、むしろ他人を理解することは絶対にできないと前に書いたが、その考えは今でも変わっていない。ただ最近僕自身としては(月並みな表現だが)雷に打たれたような衝撃を受けたことがあったので、ひとつ。
知人とメールをやり取りしていて僕がいつも通り意味不明な思想的戯言を喚き出したのだが、そこで相手が「ごめん、よく理解できていない」と返してきた。だから僕は「君が僕を理解するということは絶対にあり得ない、なぜなら君は僕ではないから」というような内容のメールを送りつけた(別に絶縁状のつもりではないしそこは相手も解ってくれているのだが)。そうすると知人は「理解できなくてもいいから誤解はしたくない」と返信してきたのである。

誤解!それなのだ!これがマスターキーなのだ!「理解されない」ことは悲しいことでもなんでもなく、普遍の摂理である。しかし、「誤解される」というのは当人を憤慨させ、悲しませ、やるせない気分にさせることができる。他者との関係において唯一開かれている可能性は誤解のみ。理解か誤解かではなく、理解できないか誤解するかのどちらかなのだ。理解できないというのはいわば初期設定のようなものなので、これは<可能性>には入らない。誤解は積極的なものである。誤解には「理解したと思い込んでいる」状態も含まれる。なぜならどちらにしろ誤った相手の像を組み立てていることには変わりはないからだ。
真理だけが最も確固たる基盤であって、しかし真理は各人によって異なっても構わない。真理は普遍的ではないのだ。同じように<自覚している自己>というのも一種の真理であり、それを誤って捉えられるということは(自分にとっての)真理が捩じ曲げられているということで、だからこそ悲しいのである。誤解した相手にとってはその<自覚している自己とずれた自己像>が真理なのだが、それはそれで問題ない。だがふたつの相矛盾する<真理>を対峙させたとき、誤解は噴出する。どちらも自分にとっては相手の描く<自己像>(同一人物の)が間違いであり、つまりは「誤解している」となる。真理が普遍的でないのと同じく、誤解も相対的なのだ。そして誤解は双方の間において対称的である。甲にとって真であることが乙にとって偽であるのが<誤解>として表されるからだ。

それから、前までは「具体的な事柄については理解は成立する」と考えていたが、この考えも改めた。前に書いたときは確かおにぎりの具の例を挙げていたように記憶しているが、たとえば甲と乙の両方がシーチキンのおにぎりを好む場合、甲は乙を「自分を理解してくれている」と評してもいいというわけである。だが甲と乙が同じようにシーチキンを好きだというのはあり得ず、また各々の理由が異なっているかも知れない。要は完全な理解などやはりあり得ないのだ。相手のいう「青色」と自分のいう「青色」が同じであるかどうかすら確かめることはできないというのに(科学的に確かめることは表面的にはできようが、科学の根拠である帰納法の論理的根拠はどこからやって来るものか?)、シーチキンを好むということに関してならなおさら相手を<理解>することは不可能なのだ。やはりそこには<誤解>しかない。なぜならば自分は他者ではなく、他者も自分ではないから。理解されないのは当然のこと。けれども誤解されることは屈辱的なのである。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ

降伏

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

Latest Articles

Comments

Trackbacks

Link

Categories

Search

 

Counter

Current Visitors:

Archives

Mail Form

Name:
Mail:
Subject:

Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。