InAequabilitas

Date : 2011年05月

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放任された異邦人

今日ママンが、じゃなくて祖父が死んだ。しかも今日じゃなくて昨日だけれども。
最後に「正式な葬式なんかやめてくれ。花輪なぞひとつも要らん」と言い残して死んだそうである。道家の思想を尊んだ祖父らしい言い分であった。それでも伯母や父はすこし花を買い、祖父が慣れ親しんでいた小さなテレビや置き時計をどかしてそこに写真と花を飾った。もし祖父が見ていたら間違いなく癇癪を起こしたろうなあと思ったが、まあ本人は死んでしまったのだから致し方ない。

面白かったのは、僕が着いたときには従姉も祖母も誰も皆平然としていて、談笑さえ交わしていたくらいだったのにもかかわらず、遺影?が運ばれてくるとみんなしかつめらしい顔つきになり、それが飾られた途端にみんなでわあわあ泣き始めたことである。あとはロウソクがなぜかゼリーキャンドルだったのも面白かった。何がいけないわけでもないが、どうしても周りに馴染んでいないのだから。
僕はもう家族全員に(こういう儀式的なことに関して、あと死生観に関して)諦められているので、泣いている人間をしげしげと観察していても、ゼリーキャンドルの成分のことばかり考えていても、もはや何も言われない(笑)。遺影の前に何やらを供えさせられ、それを終えると父親にとっとと隣室に追い立てられる。そして隣室でパイレーツオブカリビアンのサントラ(ハンス・ジマー万歳!)だとかベートーベンのピアノソナタ集だとかを聴いていても何も干渉してこないのだから実に気楽だった。しかし部屋に置いてあった従姉のアコギを弾き始めると母親がすっとんできて僕を止める。祖父が音楽をあまり好まなかったからというのが理由である。では自分が置いたものを元の場所から移動させられるとかならず不機嫌になった祖父に対して何十年もそこにあり続けたテレビと時計をどかすのは構わんのかと思ったが、まあこれも仕方ないだろう。

「未来はない」という中島氏の思想を何だか身に滲みて実感したような気がした。部屋には使われなかったオムツや、吸われなかった煙草や、食べられなかったビスケットがたくさん積まれていた。煙草は、緊急治療室の病床で何か喋るとしたら不平不満か煙草をねだるしかなかった(らしい)祖父が回復したら吸わせてやろうと誰かが買っておいたものである。これは伯父が吸うことになるに違いない。母親は少し前に日本から、祖父が好きだった生チョコレートや白い恋人を持ってきていた。それも祖父ではない誰かが食べる事になるのだろう。誰も未来が判っていたなら、祖父の為に煙草を買ったり、使われないオムツを買いためておいたりはしなかったはずである。だから彼らが物を購入している時点(現在から見れば過去)では、未来(現在から見た現在)は存在していなかったのだ。誰もが祖父の遺影に悲哀を感じていたようだが、僕は祖父がかつて<所有>していたそれらがもはや無用になってしまったことが無性に悲しかった。そこに非合理性を見たからだ。
祖父の死はそれより遥かに<合理的>である。誰もがそれを予期してはいた。しかし、誰もあとに残されていく<モノ>など考えてもみなかったのだ。だから現在それらは、ベビーベッドのそばに張られた元素周期表のように無意味であり、そしてどこか"awkward"な感じが漂う(この雰囲気にぴったりな日本語が見つからなくて申し訳ないけれど)。

現在僕にとっては親戚連中の嘆きよりも、たとえばシーシュポスの神話を読了するほうが重要な問題なのだ。人が(老衰で)死ぬのは自然現象だ。そして死ぬのは自分ではなくあくまで他人であって、また今日に限って思想を変えろと言われてもどだい無理な話である。これも致し方ない。むしろそういうものなのだ。けっして僕は祖父を嫌っていたのではない。それどころか時折哲学じみた、或いは文学じみた話もする相手だったが、しかし彼の死は自然現象だということに間違いはない。僕にとってはただひたすらに<仕方のないこと>なのである。母の死を悲しむという<芝居>をすることを拒んだが為に糾弾されたムルソーに較べれば、期待も失望もされない僕というのはとてつもない幸せ者であろう。放任された異邦人は毒にも薬にもならぬ。だからこそ<無関心>は<優しい>。世界自身にも<異邦人>にとっても。

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鬱写真

見た後きっと鬱に突入する画像を10枚。

life

swing

room

twins

falling
「ツインタワーから飛び降りた男 (The Falling Man)」、リチャード・ドリュー撮影。

sad_halloween_party

gun

deported

tower

almost_empty_room

合理主義≠悲観主義

僕は自分の思想が結構前向きだと思っていたのだけれど、この間知人にひどく後ろ向きだと評されて本気で驚いた。世界や人生に対して救いのなさすぎる見方をしているという。
どう考えてみても僕の考え方というのはこの救いのない世の中に無理にでも希望を見出そうとしているという感じが(自分では)するのだが…なぜって、どう足掻いたって最終的に自分は死んで(自分にとっての)何もかもが終わるのだし、そしてその短い一生の中であくせく動き回ってやっと手に入れるのは「使い古された栄光」に過ぎないのだし(回想と随想を参照あれ)、かつ人生が終わればそれも何の意味も持たぬものに化すのだし、死んでも死んでいなくても人間なぞ地球上に発生した化学物質の浮いたカスに過ぎないし、生きている中で「いいこと」を頼りにして生きていくのは道端に10円玉が落ちているのを期待しながら散歩するようなものだし、世界そのものには全く救いがないにも関わらず、自己は「他者性」や「客観性」から独立であるという定立を導入することによって、「現在自分にとって○○であると思うなら、それは○○なのだ」というとてつもなくポジティブな思想に繋げているではないか。
たとえばいかに周囲の人間がくだらないと言おうとも、そしてそれが実現する前に事故かなんかで死んでしまうとしても、三ヶ月後に貯金でバイクを買うことを生きる目的にして生きている男がいたって何ら問題はないのである。なぜなら彼にとってバイクを買うということは非常に意義のあることであって、「客観的」に見て意義があるかないか、もしくはそれが実現するかしないかというのはその命題と完全に独立だから。たとえばこの世界が五分前に誕生したとして(世界五分前仮説。証明もできないが反駁もできない)、そうすると今ある知識はすべて嘘だという事になり、またこれをひっくり返して考えると世界は五分後に消滅するかもしれず、そうであれば「未来の為に」現在行っている全ての事柄は無意味になる。それでも「今現在の」自分が何かを有意義だと信じるなら、例え根拠などなくとも、それに縋って希望に満ちた世界を描くことが可能なのだ!
その上、何にも意義を見出せずむしろ人生というのは時間と労力の無駄だと思う場合、もしくは生きるのが厭で厭でたまらない場合、究極の選択肢として死が残されている。しかも死んでしまえば二度と何も感じずに済んだりと、全てに嫌気がさしてしまった人間にとっては理想的すぎるくらい理想的なオプションなのである。不可逆的だから理想的じゃないじゃないかと言われそうだが、死んでしまえば後悔することもできないのでやはり最上の選択になるというわけだ。
すこし前までの僕は「世界に救いはない」で止まっていたけれども、まがりなりにも存在する「生産性」に対する説明がつかなかったのでそれを解釈しようと頑張っていたらこういう結論に辿り着いた。こんな見方をすると―つまり、「客観的」になろうと努力しないということ―世界がバラ色に見えてくる(人もいるだろう)。どうせ誰も主観から脱出できないのだし、それどころか客観など他人の主観に過ぎないのだから、自分がどう思うかを重視したって全く問題ないではないか。これでも人生に悲観的って言うかなあ?

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雑感

「震災で不合理に命を奪われる方々がたくさんいるのに、自分で自分の生命を絶つとはなんという無礼な/勿体無い/愚かな行為だろう」なぞと仰る御仁に「死にたくてもなかなか死ねないのに、震災であっさり死ねるとはなんと羨ましい」とでも言ったならさぞかし仰天して怒り狂うのだろうなあ。別に僕が羨ましがっているというわけではないけれど(僕は死に場所と死ぬ方法は自分で選びたい派)、そう思う自殺未遂者は実は結構いるのではないか。
個人は他者から独立である。不可思議ではあれど、生命はけして尊くはない。そして自らを絶対的に正しいと思い込むほどに愚かな行為はない。

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断片

人間は救いもないほど滑稽で非力なものだ。他者とは単なる観察の対象に過ぎない。


傷つかないようにする方法はただ一つ、無欲になること。


科学と宗教とは根本的に区分できない。しかし宗教の厄介なのは、他者を巻き込もうとする意欲がむやみに強いことである。


あらゆる喜びも苦悩も単なる無駄であるが、ではそうするなと言われてもできないのが人間の面倒なところだ。


付和雷同する人間は、恐らく相手に反感を抱かれないようにするためにそうしているのだろう。だが、付和雷同する人間ほど他人に嫌われやすい人種もそうないということを彼らは自覚していないのに違いない。


誰もが無駄に生き、誰もが犬死にするものだ。死に意味を持たせようとするのは虚しい試みである。生に意味を持たせようと足掻くのは当人の勝手だが。


De omnibus dubitandum! 自らの存在さえが揺らごうとも、前提の正当性を疑うことを決して忘れないようにしなければ。

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Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

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