InAequabilitas

Date : 2011年04月10日

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美術とは?

僕は所謂現代芸術を美術と認めたくない人間である。僕の家系が文系・美術系で、僕を含むほとんどの人間が古典的な審美感を叩き込まれているせいかもしれないが、たとえば絵画ではマネまでがぎりぎりOKライン、音楽ではメシアンや武満徹みたいのは大嫌い、荒木経惟やそんな感じの写真も大嫌い、そして最近の小説は読みたいと思う気すら起こらない。
どこかでガラクタを継ぎ合わせたような(…ではなく、実際にガラクタを継ぎ合わせただけの)ものをそこにいた人間がどいつもこいつも絶賛しているのを見た時、僕としてはそれに0.01パーセントほどの美も感じられず、少なくとも5割の者は周りに流されているのだという確信を持ったため「それは芸術の欠片ですらないただのゴミである」と言い放ってみたことがある。誤解して欲しくないのは、僕がある作品を嫌いだからといって、それを褒める人間はみんな審美感がおかしいのだと思っているのではないということ。たとえば僕はドガも嫌いだが、誰かが「あの踊り子の絵はほんとうに綺麗!」と感激していても僕は何も言わない。とりあえずはたとえ辺縁であったとしても芸術の範疇に引っ掛かっていると認めるからだ。
じゃあ芸術・美術とは何だと思うのかと問われそうなので、美術の定義を下しておこう。(そういえば、しばらく前にある作家陣が現行の教科書に載っている作品は文学なんかじゃないと批判した事件があったなあ。批判された作家達は「じゃあ文学って何なのか言ってみろよ」と反駁し、相手は黙ってしまったのだが、僕は依然として<文学ではない>派を支持している。)

まず言葉を見れば、美術は「美」と「術」に分かれる。つまりは第一に美しくなければならず、第二には技が必要だということ。実際には技の方が重要かもしれないということは、英語のartの語源からも伺える。artはラテン語のars、つまり技術から来ている。僕はさらにその「技」というのに「人為的なもの」というニュアンスが含まれていると考える。大自然の中の落陽は美しいかもしれないが、誰もそれを美術とは呼ばない。なぜならそれは(人によって)造られたのではないからだ。よって「術」がない。だから「自然の美」とは言っても「自然の美術」は聞かない。

では先に「技が必要であること」を視点に芸術を鑑賞してみる。この基準のため、僕はたとえばジョン・ケージの音楽を排除する。彼の「作曲」したものに「4分33秒」というのがあるが、それは4分33秒間ピアノの前に何もしないで座り続けるだけの「音楽」である。結局のところは(それを思いつく以外は)ケージは何もしていないので僕は芸術と見なさない。因みに「4分33秒」の変奏集が存在するのらしい。
また、ピントが変な点(合うべきでない点)に合っている写真やブレている写真も芸術ではない。ピントも合わせられない「芸術家(写真家)」は技術が足らんのである。誰だか忘れてしまったが、とある写真家が「ブレた写真なんか撮る写真家は軍事法廷に突き出されるべきだ」と発言していたのを覚えている。実際のところ、猫踏んじゃったぐらいしか完璧に弾けないのにピアニストを名乗っているのと等しいのだ。
そして写真という線から行けば、記録写真も写真芸術ではない。同じようにレポートは文学ではない。それらが創られるのに<人為的>な行為が介入していないからだ。シャッターを切ることやキーボードを叩くことは<人為的な行為>には含まない。「人為的に芸術にしようという試み」のことだ。たとえば修辞を駆使する、構図を考える、ディフューザーを使う、など。カメラをひょいと持ち上げていきなりシャッターを押しても、それは構図を考えていないわけなので芸術にはならない。
何かをぶっ壊すだけの<作品>も技がないので芸術などではない。ぶっ壊し方に技術があるのだと主張する阿呆はさすがにいないだろう。さらに荒唐無稽なものとしては、とある女性が「現代芸術」と称して素っ裸で数十人の記者のインタビューを受けたというのを聞いたことがある。そりゃ芸術じゃなくてパフォーマンスだろ、というかポルノだろと喚きたくなる話である。

次の「美しくなければならない」がクセモノだ。これについては主観説と客観説のふたつが対立しており、主観説によれば何が美しいかは見る者によって決定され、客観説によれば美の基準は意識の外側に存在する。僕は主観説を採る。何が美しいかというとわかりづらいが、何が美味しいかは個人個人ではっきりとずれるということは明白だ。とはいえ、美しさとおいしさを同じものとしていいのかという疑問が残るが…。
技術の有無で<客観的>に非美術を排除し、そこからは一人で<主観的>に芸術であるかないかを決める。僕であれば、ゴヤやゴッホの色遣いはうるさすぎ、ピカソやマティスの描き方は理解不能で、ショスタコーヴィチやメシアンの和音の使い方は下手で、荒木経惟の写真の画面は汚く、ウェブ小説や現代詩の大半は文章がクズだと認識し、よってこれらを芸術から外すだろう。先に述べたガラクタの寄せ集めも、全く以て美しくないから僕にはただのゴミに過ぎなかったのである。

たとえ作者が作品に込められたいかなる深い「意味」を熱弁したとしても、それは作者の思想がどうかという問題であり、作品自体の芸術としての価値には一向に変化をもたらさない。ピントの合っていない写真は「現代社会の困惑」を、不協和音の連続は「心理的な摩擦」を、意味不明な言葉の羅列は「混沌の中の糸口」を表現しているのだというような説明を頻繁に見かけるが、「何もまともに出来ないくせに何を抜かすか」とでも皮肉ってやりたいものだ。実際、僕の母親(写真家)が大学に在籍していた時に、いつもダメ写真しか撮れない同級生が「これは現代人の不安を表しているのです」とか何か説明してばかりいるのを教授が怒鳴りつけたことがあるそうだ。結局彼女は中退したらしいが。
ある芸術家の知人は、素描をさせればとてつもなく上手なのにも関わらず、今ではもっぱらキャンバスに墨汁を投げつけることに専念しているようである。そしてそれを見せながら「エロティックじゃないかい?」といつも嬉しそうに訊くので(しかし彼はすでに中年男なのだ!)、「エロティックなものを妄想しながら仕事していたからだろう」と返してみる。それでも全く動じずへこたれないからこそ、飽きもせずにそんな変な絵を生産し続けられるのであろう。彼にも、僕がどう感じるかということは彼にとって寸毫の影響も持たないのである。むしろ彼がなぜか大学講師の職に収まっているところからすると、彼の感受性の方が一般的なのかもしれない…。

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Irony, Satire and Truth

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北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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