InAequabilitas

Date : 2011年04月

CURRENT MOON

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緘愁

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回想と随想

小学生の頃、クラスメイトが体育の授業の試合に必死になる様子がどうしても理解できなかった。何故って、たとえそのドッジボールの試合で勝とうとも、その授業時間が終わってしまえばそれは利益的に何の意味も持たないのだから。運動会もどうでもいいと思っていた。勝った組には立派な旗とトロフィーが最後に代表者に授与されるのを知っていたけれど、それらは式の直後には回収され、そして学校にずっと保管されていて、何年も何十年も使い回されてきたものだということも知っていたのだ。だから逆に僕は、「この問題に答えられたらテストのボーナス点を5点やる」というような場合はやたらと張り切った。その問題に答える事はボーナス点という利益を得る事ができるわけだから。またあるとき僕はいじめに遭ったのだが、相手は体育のリレー班が一緒だった子供たちだった。僕は走るのが遅く(今でもそうだけれど)、彼らは僕さえいなければクラス対抗リレーに勝てるのだと言う。一般的には自罰的な僕だったが、この度はどうにも理解できず、結局悪いのは向こうであると結論づけた。全く利益にならないことを成し遂げる為に出来ない事を要求された挙句、毎日蹴られたり罵られたりするのはどうにも理屈に適っていなかったからである。
今でも僕はそんなふうに思うのだ。こうやって今、むやみに足掻きながら何かを成し遂げても、この人生が終わってしまえばそれは何の意味も持たないのに、何を必死になっているんだろうか?たとえ確かに世間に認められるほどに素晴らしい成果をあげても、それは単に<使い古された栄光>に過ぎない。テストのボーナス点のようなものもただ目先の利益であって、同様に過ぎ去れば何の意味も持ちはしない。この場合、自分を苛めているのは他でもない自分ではないのか?
だから僕は、時折あの晴れた午後のように、授業からそっと独り逃げ出してしまいたくなることがある。けれどもそれは、僕の存在をひどく疎ましく思っている彼らの望みを叶えてやる事に等しいではないか。なれば彼らの視界に堂々と居座り続け、彼らを憤死させてしまうというのもまた一つの手である。

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美術とは?

僕は所謂現代芸術を美術と認めたくない人間である。僕の家系が文系・美術系で、僕を含むほとんどの人間が古典的な審美感を叩き込まれているせいかもしれないが、たとえば絵画ではマネまでがぎりぎりOKライン、音楽ではメシアンや武満徹みたいのは大嫌い、荒木経惟やそんな感じの写真も大嫌い、そして最近の小説は読みたいと思う気すら起こらない。
どこかでガラクタを継ぎ合わせたような(…ではなく、実際にガラクタを継ぎ合わせただけの)ものをそこにいた人間がどいつもこいつも絶賛しているのを見た時、僕としてはそれに0.01パーセントほどの美も感じられず、少なくとも5割の者は周りに流されているのだという確信を持ったため「それは芸術の欠片ですらないただのゴミである」と言い放ってみたことがある。誤解して欲しくないのは、僕がある作品を嫌いだからといって、それを褒める人間はみんな審美感がおかしいのだと思っているのではないということ。たとえば僕はドガも嫌いだが、誰かが「あの踊り子の絵はほんとうに綺麗!」と感激していても僕は何も言わない。とりあえずはたとえ辺縁であったとしても芸術の範疇に引っ掛かっていると認めるからだ。
じゃあ芸術・美術とは何だと思うのかと問われそうなので、美術の定義を下しておこう。(そういえば、しばらく前にある作家陣が現行の教科書に載っている作品は文学なんかじゃないと批判した事件があったなあ。批判された作家達は「じゃあ文学って何なのか言ってみろよ」と反駁し、相手は黙ってしまったのだが、僕は依然として<文学ではない>派を支持している。)

まず言葉を見れば、美術は「美」と「術」に分かれる。つまりは第一に美しくなければならず、第二には技が必要だということ。実際には技の方が重要かもしれないということは、英語のartの語源からも伺える。artはラテン語のars、つまり技術から来ている。僕はさらにその「技」というのに「人為的なもの」というニュアンスが含まれていると考える。大自然の中の落陽は美しいかもしれないが、誰もそれを美術とは呼ばない。なぜならそれは(人によって)造られたのではないからだ。よって「術」がない。だから「自然の美」とは言っても「自然の美術」は聞かない。

では先に「技が必要であること」を視点に芸術を鑑賞してみる。この基準のため、僕はたとえばジョン・ケージの音楽を排除する。彼の「作曲」したものに「4分33秒」というのがあるが、それは4分33秒間ピアノの前に何もしないで座り続けるだけの「音楽」である。結局のところは(それを思いつく以外は)ケージは何もしていないので僕は芸術と見なさない。因みに「4分33秒」の変奏集が存在するのらしい。
また、ピントが変な点(合うべきでない点)に合っている写真やブレている写真も芸術ではない。ピントも合わせられない「芸術家(写真家)」は技術が足らんのである。誰だか忘れてしまったが、とある写真家が「ブレた写真なんか撮る写真家は軍事法廷に突き出されるべきだ」と発言していたのを覚えている。実際のところ、猫踏んじゃったぐらいしか完璧に弾けないのにピアニストを名乗っているのと等しいのだ。
そして写真という線から行けば、記録写真も写真芸術ではない。同じようにレポートは文学ではない。それらが創られるのに<人為的>な行為が介入していないからだ。シャッターを切ることやキーボードを叩くことは<人為的な行為>には含まない。「人為的に芸術にしようという試み」のことだ。たとえば修辞を駆使する、構図を考える、ディフューザーを使う、など。カメラをひょいと持ち上げていきなりシャッターを押しても、それは構図を考えていないわけなので芸術にはならない。
何かをぶっ壊すだけの<作品>も技がないので芸術などではない。ぶっ壊し方に技術があるのだと主張する阿呆はさすがにいないだろう。さらに荒唐無稽なものとしては、とある女性が「現代芸術」と称して素っ裸で数十人の記者のインタビューを受けたというのを聞いたことがある。そりゃ芸術じゃなくてパフォーマンスだろ、というかポルノだろと喚きたくなる話である。

次の「美しくなければならない」がクセモノだ。これについては主観説と客観説のふたつが対立しており、主観説によれば何が美しいかは見る者によって決定され、客観説によれば美の基準は意識の外側に存在する。僕は主観説を採る。何が美しいかというとわかりづらいが、何が美味しいかは個人個人ではっきりとずれるということは明白だ。とはいえ、美しさとおいしさを同じものとしていいのかという疑問が残るが…。
技術の有無で<客観的>に非美術を排除し、そこからは一人で<主観的>に芸術であるかないかを決める。僕であれば、ゴヤやゴッホの色遣いはうるさすぎ、ピカソやマティスの描き方は理解不能で、ショスタコーヴィチやメシアンの和音の使い方は下手で、荒木経惟の写真の画面は汚く、ウェブ小説や現代詩の大半は文章がクズだと認識し、よってこれらを芸術から外すだろう。先に述べたガラクタの寄せ集めも、全く以て美しくないから僕にはただのゴミに過ぎなかったのである。

たとえ作者が作品に込められたいかなる深い「意味」を熱弁したとしても、それは作者の思想がどうかという問題であり、作品自体の芸術としての価値には一向に変化をもたらさない。ピントの合っていない写真は「現代社会の困惑」を、不協和音の連続は「心理的な摩擦」を、意味不明な言葉の羅列は「混沌の中の糸口」を表現しているのだというような説明を頻繁に見かけるが、「何もまともに出来ないくせに何を抜かすか」とでも皮肉ってやりたいものだ。実際、僕の母親(写真家)が大学に在籍していた時に、いつもダメ写真しか撮れない同級生が「これは現代人の不安を表しているのです」とか何か説明してばかりいるのを教授が怒鳴りつけたことがあるそうだ。結局彼女は中退したらしいが。
ある芸術家の知人は、素描をさせればとてつもなく上手なのにも関わらず、今ではもっぱらキャンバスに墨汁を投げつけることに専念しているようである。そしてそれを見せながら「エロティックじゃないかい?」といつも嬉しそうに訊くので(しかし彼はすでに中年男なのだ!)、「エロティックなものを妄想しながら仕事していたからだろう」と返してみる。それでも全く動じずへこたれないからこそ、飽きもせずにそんな変な絵を生産し続けられるのであろう。彼にも、僕がどう感じるかということは彼にとって寸毫の影響も持たないのである。むしろ彼がなぜか大学講師の職に収まっているところからすると、彼の感受性の方が一般的なのかもしれない…。

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へんないきもの

こういうとてつもなく変な架空生物が好きなのです。

luxo_jr
PIXARのロゴで周知のルクソー。こいつらが遊んでるショートフィルムが存在する。それを見ると、子供の方は紙風船が好きらしいということがわかる。(そしてピクサーのロゴのIを潰すようにそれを潰してしまうのだけれど…)

transparent_eyeball
エマソンが著作「自然論」のなかで<自然に溶けてゆく自分>を透明な目玉に喩えたやつを誰かが絵にしてしまったもの。目玉親父の外国版といったところだろうか。こういう友人がいたらきっと毎日が楽しい!

scissors
何の映画だか知らないけれども映画のポスター。きっと言い付けたら何か持ってきてくれるのであろう。

curl_ups
M.C.エッシャーの描いた変な生物。日本語だと巻取り虫と訳されているらしい。エッシャーはこいつに学名(Pedalternorotandomovens Centroculatus Articulosus)まで付けてしまった。背景に大量のドイツ語が書かれているが、これはこの生物の説明。それによると、巻取り虫が出現したのは「自然界に車輪状の生き物がないから」であり、またヘルメットのように見えるそれは「オウムの嘴」であり、その両端に突き出したハンドルのような黒い物は眼なのだそうである。

house_of_stairs
上のものどもが大量にいる、もっとエッシャーらしい(空間が歪んだ)絵。

eggs
架空生物というよりまあただの悪戯にすぎないのだけれど(僕がやったんではないよ!)、卵シークレットサービス。銃まであるのかよ。(と感心した覚えがある。)

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

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