InAequabilitas

Date : 2010年10月

CURRENT MOON

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おお、あと3人で10000ヒット...
キリ番踏んだ人は御一報...しなくてもいいや。何もしないと思うが(ぇ
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情けない英語と実体のない言語学習

コマーシャルと言えば、7月半ば頃のサマージャンボともうひとつ何かのくじの広告があった(キャッツアイの方でなくて西田敏行の出てくるほう)。あれもまた笑ってしまった。サラリーマンが二人、「プランAだ!」「いやプランBだな!」とか何とか机を叩いて議論しており、「社長、決定を!」といって社長のほうを見ると、社長は議論そっちのけでどっちのくじにしようか迷っている、というしょうもない展開。展開ではなく、そのサラリーマン二人がなぜかヘタクソな英語で怒鳴り合っている所がおかしかった。英語である必要があったのか。どう見ても日本の会社の日本人ばかりがいる会議室なのに。

現在は<先進国総バイリンガル>の時代。非英語圏は母語と英語、そして英語圏は英語と仏語もしくは西語。トリリンガルだってそう珍しくもなくなってきた。そろそろ「英語を使うとカッコイイ」から抜け出して欲しいのだが、どうにもそうはいかないようだ。喋っている所だけ聴けば英語のネイティブスピーカーかとまごうほど上手なら勿論カッコいい。しかしそこまで要求しなければ、ほとんど誰でも英語ができるといえる。それでもまだ英語がカッコイイのですか。
変な英字Tシャツは未だ売れ続けているし、また英語を<装飾>した文房具も未だ大量生産されている(まあ、ローマ字の日本語長文を見かけた時の情けなさに比べたらよほどましか)。せめてフランス語だとかドイツ語だとか、もうちょっと学習者の少ないものにすればいいのに…結局は同じ事なのだけれども。

どの外国語を使うにしろ、どこか「実体のない言語学習」が透けて見えるように思うのだ。僕自身の経験からいうと、身を張って学習した外国語はカッコいいと思わない。たとえば僕は生まれがおかしいので母語を3つくらい所有し、外国語はそれなりにできるのが1つとカタコトができるのが3つくらいあるが、このうち使って「俺偉い(殴)」と思うのはカタコト言語の3つである。しかし母語3つとそれなりにできる外国語は<身を張って>習得した。どういうことかというと、つまりは「習得するか餓死するか」という選択だったのだ。
(何で母語もそうなのかというと、日本で育ったために母国語の環境が家庭しかなく、母は「日本語を喋るんだったらあんたは隣の日本人の家に行って食べさせてもらいなさい」という方針を取った。母国語を喋らないと本当に食事を出してくれなかったのである。文字通り餓死しそうな環境。)
それくらい言語と戦っていると、カッコいいと思うどころか憎悪すら抱いてくるものだ。そんなわけで僕はこの4つの言語を激しく憎みつつも、<謎の外国語の中に浮かぶ一筋の希望の光>みたいに拠り所にして、実にアンビバレンスな心情で生きている(笑)。だからラテン語などは、体を張って学習したくてもそんな環境がないわけだから(死語だもの)、僕はちょっとできるからといってやたらめったら使いまくるのである。ああ、自白してしまった(苦笑)。
僕は日本の携帯電話も英語表示にしているが、英語のほうがフォントデザイン的にすっきりしていて読みやすいし、それに半角カタカナが嫌いだからである。カッコいいのを選んだらロシア語とかで読めない(発音だけは判るけれども、それ以前に無いし)。ふつうは読めないものがカッコよく見えてくるものだ。英語をカッコいいと思って使いまくっている人々は果たして英語が読めないのか。そうではないと思うのだが。

英語を上手に喋れないのは母語話者でないから当然で、カッコ悪くはない。だが上手に喋れもしないのにそんなありふれた言語をカッコつけて喋るのは逆効果。小学生が大人の口調を真似て(いるつもりで)喋っているようで何だかこちらが恥ずかしくなってくる。

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西洋と東洋

欧米人がアジア人の名前を表記する場合、「Naoto Kan」のように姓名逆にする。なぜならば彼らの名前の構造が名・姓だからだ。しかしなぜアジア人が欧米人の名前を表記する場合は「オバマ・バラク」とならないのか。しかもアジア人は言われなくとも自ら逆転させて名乗る。なのに彼らはそうしない。

僕はアジア人の名前を英語表記する時は逆転させない。する必要がないと考えるからである。そうして彼らが、前後どちらが姓なのか解らなくなったとしても僕の責任ではないと思っている。間違えたら訂正してやればいいだけ。

そんな欧米中心主義を僕は嫌っている。世界共通語に関しては、いずれかの言語が結局選ばれなくてはならないのだから、別に英語でも日本語でも何でも仕方がなかったろう(僕としては、たとえ英語圏の人間でなかったとしても「英語なら当然通じるだろう」という横柄な態度は気に食わない。だからまず現地語で「英語で話していいですか」と訊いてから使う事にしている。これを暗記するのがいちいち面倒ではあるが)。だがこれは違う。欧米人はひっくり返さなくてもいいが、アジア人ごときがひっくり返さないと欧米人様がわからなくて困るだろう、なんて魂胆が見えて何だか厭になるのだ。アジア人を卑下し、欧米人の文化理解能力を見くびっているような気がするもので。

また、文中で固有名詞だけをいきなり横文字のままにする書き方の文章を見かける。確かに変な音訳は防げるだろうが、欧米人が文中でいきなりひらがなや漢字を使ったりするだろうか。変でもローマ字で音訳する(おかしな所にアクセントがついて、よく元の発音とは程遠い事になっているものだ)。だから変でもカタカナや漢字やハングルに直せばいいのだ。最もいい方法は「音訳(原語)」構造、例を挙げれば「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」または「Natsume Souseki(夏目漱石)」と書くこと。欧米人が傲慢なのではなく、アジア人が求められもしない所から勝手に遜ってしまっているような印象を受ける。

欧米中心主義というか、欧米美化主義とでも言うべきものも見かける。最近、西洋人を使った漢方薬の広告(勿論東洋人制作で、東洋人向けである)を見かけたが、思わず笑ってしまった。西洋人である必要があったかなあ。中国では「背広を着た白人男性を貸し出す」というとんでもないビジネスが出てきたそうだが、何でかというと「会社のイメージアップに貢献させる」ためだという。別に外資系ばかりが「借りて」いるのではない。何で白人がイメージアップになるのか。ただ、<白人だから>なのだ。

某アジアの国のお偉方が、これから建築の質を上げていくという宣言(?)の中で「欧米に引けを取らないほどに」なんて言っていた。これじゃたとえ建築レベルが先進国に追いついたとしても、<欧米に対する劣等感>は拭い去れないに違いない。

東京の街を歩いていると、若い日本人の女と年老いた西洋人の男という組み合わせのカップルをよく見かける。何なんだ。ガイジンなら爺さんでもいいってか。まるで商売女のような軽薄さと組み合わせの滑稽さに苦笑してしまう。考えてもみればいい。そんな歳になっても伴侶が見つからないで、娘にできるほど若い女を騙して(?)恋人に付けてしまうという奴のはどうにもいかがわしい匂いがするのだが。

日本の歌手のPVを視てみると、むやみやたらと欧米人を使っているものが増えている気がする。起用されているその欧米人が美男美女ならば理解できようが、実際はいたって普通の顔立ち・スタイルであり、ただ「西洋人が出てるとカッコイイ」と思っている程度のような印象だ。洋楽PVにアジア人が意味もなく出演しているのを視ると非常に微妙な気分になる(彼らは「東洋人が出てるとカッコイイ」のらしい)が、あれとよく似ている。

使って効果的なら全く使ってよい。たとえば日本(東京)で「ドロリッチ」なる飲み物のコマーシャルを見た(7月中旬頃)が、あれは実に効果的と言える。世界各国のいろいろな人種が、ドロリッチを飲んでその食感をそれぞれの言葉(?)で表すというもの。あと古いものになるがもう倒産したNOVAの「異文化コミュニケーション」も良かった(外国人どころか宇宙人まで出てきたからなあ)。しかし無意味に用いるとただただ滑稽である。欧米にずっと頭の上がらない、情けないアジア人を晒す必要はない。

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引っ越し返す?

恐らくまたfc2に帰ってくるやも知れぬ。でもはてなにも居続けるかも知れぬ...

意志と表象と...

久しぶりに小説を読み返したはいいが、それが異邦人(L'Étranger)、不思議な少年(The Mysterious Stranger)、海と毒薬などという重すぎる組み合わせだったので気分が素晴らしいほどどんよりしている。自分の選択と趣味の問題だということは重々承知しているけれど(笑)。因みにこれから罪と罰、蝿の王を読むつもり。自滅!

それにしても厭世的なマーク・トウェインは味があるなあ。トム・ソーヤーなんかと読み比べると完全な別人なのではないかと思ってしまう。人生なんて幻なのだ、と月並みなこと(今としては)を語っているようだが、<人間は一片の思惟に過ぎない>とさらりと言ってのける。全く以て僕の<この世の全ては表象>という立場と同じ。この世の全ては夢(=Traum、サタンの"偽名")なのだと言う者もそれに同意する者も掃いて捨てるほどいるが、果たして自らの骨肉まで存在を否定してしまえる人間はどれほどいるだろうか。徹底的に物質の存在を否定してしまえば自分の足場が崩れ落ちていくのは明白だ。それでも、自らを不確定性の深淵に突き落とすのだとしても<何も証明できないのだ>ということを受け容れるには彼も勇気が必要だったろう。そうだ!目に見えているもの、聴こえているもの、触れているものが存在しているとどうして証明できる?幻覚患者を、彼が見ているものがないのだと、聞こえている声はないのだと、感じている感覚は偽りなのだと、どうすれば説得できるというのだ?誰も幻覚患者と変わりなどないのだ!

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Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

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