InAequabilitas

Date : 2010年09月

CURRENT MOON

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雑考

生命の価値を問う事は不可能だ。第一に、自らに属さない抽象物を測量する事はできない。そして、己の生命であろうとも自ら望んで得た物でない以上、またこれも不可能となる。そもそも生命の価値とは何によって規定されるのか。それが存在しないならば、生命の価値などというものがまず存在しない事になる。存在しないものを測るというのが無謀な試みである。

<誰にとっての世界が正しいか>も無意味な問いでしかない。目が見え、耳が聞こえ、神経を正常量有し、味覚障害でなく、その他云々といって、しかし盲人や聾者の感じている世界が<欠けている>とは言えない。なぜならば、人間はみな見える電磁波の周波数が限定されているし、聞こえる音の周波数も限定されている。視野の角度もたとえばクジャクよりは狭く(クジャクは340度)、カニのように毛を使って流水の速度を測る事もできない。また逆に彼らが人類より豊かな世界を感じているかというと、一部においてはそうかもしれないが全体としてはそうとは限らないかもしれない。

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「見える」とはどういう事か

確かに見えているのに、見ている者にとっては存在しないものというのがある。有名な実験に、たとえば「これからボールが何回パス回しされるか数えてください」といって被験者に映像を見せるというのがある。実はボールが回されている間、ゴリラの着ぐるみを着た人間が画面の端からそーっと入ってきて、その上画面中央で踊ったり(?)するのだが、あとで被験者に「ゴリラに気がつきましたか」と問うと、ほとんどの者が気づいていない。視野には確実にゴリラが入っていたにも関わらず、そして見ていたにもかかわらず、被験者にとっては<そこには無かった>のである。なぜならば、被験者の意識はボールに集中されており、ゴリラ(を含むボール以外の全ての物)ではなかったから。これをインアテンショナル・ブラインドネス(inattentional blindness)という。

関連した概念に、チェンジ・ブラインドネス(change blindness)というのもある。たとえば人(A)がフライドポテトを食べていて、突然隣に座った者が「あそこにいるのオバマじゃないか」と声を上げる。Aは顔を上げて、<あそこにいる>人間がオバマでないのを確認して視線をポテトに戻す。実はAが顔を上げている間、隣の人間がAのポテトを一本失敬したのだが、大抵の場合においてAはそれに気がつかない。注意がポテトからオバマにずれてしまったので、ずっと手元にあったポテトはAの視界に入っていたのに<見ていなかった>のだ。僕としてはこれもインアテンショナル・ブラインドネスだと思っているのだが。

しかし―心理学を光学に置き換えて申し訳ないのだが―人間の目はレンズである。眼球の構造はアナログカメラとよく似ている。アナログカメラは単焦点、つまり一度に一つの点にしか<集中>できない。もしくは視野に入っている物のどれにも<集中>しないか(部屋の中でφ=∞を使っている時など)。上のポテトの例でいえば、毎度手元のポテトの袋を見る時、人は周りのポテトや袋や自分の手などを全て引っ括めて<見ている>のではない。水晶体の焦点にあたるたった一本のポテトの、しかも一部分しか見ていないのだ。ゆえに失敬されたポテトは<見えていたのに見ていなかった>のではなく、ただただ<見えていなかった>のである。

ブラインドネスは盲目、つまり光を感じられないことだ。だが上に書いた二つの<ブラインドネス>は光を捉えられない事が問題だったのではなく、単にピントが合っていなかっただけの事だといえよう。今例えばこの文章の<この単語>を読みながら同時に一行目の文を読めるか。視界には入っているが、それを読むにはピントをずらさなければならない。読者にとって今この瞬間には一行目の文章は<見えない>のである。<見ていない>のではないのだ。「見えないのと存在しないのはよく似ている」とマックオウンは言ったではないか。

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皮肉

irony

一種のブラックユーモアとでも言おうか。

武力で何が解決されるだろう。言葉は無力だが、武力は何も問題を解決できない。

力で力を制する事はできようとも、怒りは行き場を見つけられずに鬱屈する。歴史は繰り返す。

不毛な議論

僕がとても小さかった時の話。小さいといってもベートーヴェンの悲愴を弾いていたわけだから赤ん坊ではない。曲を弾くにはまず譜読み(ある先生は「んなもん譜読みじゃない!音取りだ!」と喚いたが)し、それからミスがないかどうか点検するためその曲のCDを聴く。

その日はたまたまどこかの調節ボタンが押されてしまっていたらしく、全ての音が一度上がっていた。問題は、僕を除いて家の中の誰一人として絶対音感のある人間がいなかったこと、そして僕自身が絶対音感というものを知らなかったことである。

(それから2年ほど経って、同級生が音楽の時間に偶然<発見>した。ずっと音を判別出来るのは当然だと思っていた僕は非常に驚いたものだ。考えてみれば、発車サイン音はおろか鳥の声やクラクション、レジの音や風の音まで楽譜に表せてしまうのは確かに変かも知れない。)

僕は「コンポが壊れている」と主張するが、誰も真に受けてくれない。僕が大人達を困らせようと我儘(?)を言っているという理解なので、いくら「これじゃ確認できないじゃないか」と押そうが、当惑するか笑うか逆に怒り出すくらいしか反応がなかった。そのうえ悲しいことにその機械以外にCDを再生できる機械が当時家になかったのである。

かなり経って(1年ほど前)やっと彼らは絶対音感・相対音感なるものの概念を理解した。このことを思い出した折、案の定「こっちの責任じゃない!お前が変人なんじゃないか!」と責められたのだが(笑)。

それで実感したのが、<通じない奴には言っても無駄>という当り前のような教訓である。当時においては僕も彼らも「間違って」はいない。なぜなら絶対音感のある者から言えばC mollがD mollになってしまうのは確かに故障に他ならないが、相対音感者からすればC mollがD mollになろうと、それどころかG mollになっても同じ音楽なのだから、故障なんかしちゃいないという。

喩えて言えば、日本語しか分からない日本人が、英語しか分からないイギリス人に向かって、日本語で苦情を延々と述べ立てているようなものだ。大袈裟に言えば<世界が違う>のである。もはや相手が何かを苦痛に思っているという事実さえ伝わるか危ういとは何と不毛なことか!

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伺晨

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Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

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