InAequabilitas

Date : 2010年05月

CURRENT MOON

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変な言葉

どうにも「腑に落ちない」言葉というものがある。
「腑に落ちない」というと何となく利益面が絡んでくるようなイメージがあるのでやや語弊があるが、要はただ単に「変」な言葉ということだ。文法的に間違っているのではない。ロジックが違うというか、いややはりただ「変」だとしか言いようがない。たとえば-

『運命は変えられる!』
いやによく聞く言葉である。あまりによく聞くので何が変なのか一瞬わかりづらいが、まず話者は「運命」という語彙を用いている時点で「運命」の存在を肯定していることになる。しかし「運命」とは定められたものであり、人間の意志では変えられないものというのが定義だ。それを「変えられる」と来る。これはどう見ても自己撞着である。
前提1:運命は存在する
前提2:未来は自分の意志によって変えることができる
結論:???

『私は生まれた』
「生まれた」は自動詞だ。ということは話者は自らの意志で生まれたことになるが、しかし出生は選べない。最近のスピリチュアル・カウンセリングとか何とかは出生の意志を肯定しているらしいが、あれはまあ出生の問題に悩み続けて悶々としている者どもを自己満足させるための手段に過ぎぬ。とすると英語などでの「I was born」のほうが正しいと僕は思う。少なくとも意志があったなら僕は絶対に生など選んでいない(苦笑)。

『友達になろう』
これもまた耳慣れすぎて厭になる言葉のひとつ。同じようなものに「恋しよう」があるが、そもそも友人になったり恋人になったりというのはしようと思ってもできるものではない。こう言うと曖昧で凄く厭なのだが、友情や恋慕とは「なんとなく」始まるものではないか。話してみたらなんとなく気が合った、そしてなんとなく友人という集合の中に落ち着いた、みたいな感じである。「なろう」と言ってなる友人はまた逆に「友人やめた!」(何だこの台詞)と言い出すのも困難であろう。そして表面的には仲良さそうに笑いながら腹の底で相手を恨み呪っているという恐ろしい状況が発生するに違いない(多分)。

『一緒に…』(広告)
広告においてよく見かけるフレーズである。たとえば「一緒に夢を叶えましょう」だとか「一人で悩んでないで(中略)一緒に解決しませんか」とか。ああいうのを見るとなぜか非常に腹が立つ。理由は簡単。偽善的すぎるからだ。たいてい彼らが「一緒に」とのたまっているのはしごく労力を必要とする行為である。ところが彼らは広告からにやにや笑いかけるのみで、何もしない。何かするならそれも金の為である。それを「一緒に」と言うのだ。やたら腹が立つのは僕だけか。

おまけ:Macintosh
知人がMacBook Proを買った。今までWindows一筋でマックなんかほとんど触ったこともない奴である。操作が判らんというので僕のところに持ち込んできた。何か新しい機能はないかと(最新型だったのだ)、説明書をめくってみると1ページ目に…

「おめでとうございます。このMacBook Proはあなたに出逢うために造られたのです。」

いやあれは笑った。第一何が「おめでとう」なのかも判らんが、とにかく素晴らしいマック様なので許すことにした(笑)。

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理解について

僕はとうの昔に他人に理解されようという希望を捨ててきたのだが、それには二つほど理由がある。まずはじめに(誰でも思いつくかもしれないが)、理解されようと努めた挙句それが水泡に帰し続け、結果として単純に絶望したから。第二には、それにやたら学術的な説明を自ら与えてしまったから。というのは、心理学において―僕はこの説がひじょうに好きなのだ―ジョハリの窓と呼ばれる自己開示性を調べるテストがあり、それによると心は4つの領域からなるという。開放領域(自他ともに知っている)、隠蔽領域(自分のみ知っている)、盲点領域(自分は知らないが他人が知っている)、未知領域(自他ともに知らない)の4つである。
とすると自分ですら自分を完璧には理解できない(盲点/未知のため)のだし、ならば他人が自分を完璧に理解しているというのはある意味ホラーだということになる。もうひとつ僕が思うのは、「誰も解ってくれない」と人は言うけれど、確かに完全に解ってくれる奴はいないだろうが、逆に完全に解ってくれない奴もいないだろうということ。多かれ少なかれ人は出会った相手の事を理解している(会ったこともない人間の事はさすがに解らないなあ)。問題はその割合であり、そのパーセンテージに対する要求が比較的高ければ「誰も解ってくれない」になるのだろう。
みんな中途半端に解り合っているだけなのに「あなたの事は解っているよ」とかいう謎の言葉を吐いたり、中途半端に解り合っているにも関わらず「あなたは解ってくれない」と泣き喚いたりするというわけである。
しかしその理解が特定の事物に関するものであれば、この二つの言葉は有効となる。たとえば片方が「シーチキンっておいしいと思う」と言ったとする(別にシーチキンであるべき理由は全くないが)。そして相手が「そうかねえ。おかかのほうが美味いと思うが」と言い、激昂した(激昂しなくてもいいけど)先の一人がシーチキンが美味い理由を長々とまくし立て始める。その大演説が終わった後、それでも後の一人が首を捻って「いや、やっぱりおかかでしょう」と言うならば、先の一人は泣き喚きながら(泣き喚かなくてもいいけど)「あなたは解ってくれない」と言うことができる、というわけだ。逆なら大演説後におかか派のほうが「そうか、ではシーチキンは美味いのだろうなあ」と言えば、シーチキン派の「ああ、解ってくれるのね」は有効となる。
上の例においての「理解」は「シーチキンが美味い」という事柄に関してだ。そういう個々の具体的な事柄であれば完璧な理解は可能かもしれない。しかし人間をまるごと、それも思想だとか曖昧なものを全てひっくるめて「理解せよ」というならそれは絶対に不可能である。
誰かを理解してやることは美徳であり理解してもらえないのは苦痛の頂点、みたいに言われているようだが、はてさてそのような定義は意味があるだろうか。「偶然」誰かを理解できて「偶然」誰かを理解できなかったというのみ。思考みたいに曖昧なものについては、解らないものは努力しても解るはずがない。逆に解りたくなくても解ってしまうものもある(超凶悪犯の犯行時の心理とか)。でもやはりそれらも部分に過ぎない。何故か。簡単に言えば、「僕はあなたではないから」。

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ハイル・ヒットラー

Nazis
対ナチス勝利65周年記念に父が製作。
材料:ソラマメ、爪楊枝、イカ骨

ああそうだ!その通り!僕は無知なのだ!しかし無知であることに気付いていないそこのあんたや、無知である事を誇っているようなそこのあんたよりは随分ましだと思うのだが。

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身体完全同一性障害

ナントカ同一性障害といって昨今まず思い浮かぶのは「性同一性障害(GID, Gender Identity Disorder)」に違いない。ほんのわずか精神医学を齧れば「解離性同一性障害(DID, Dissociative Identity Disorder)」も知る事ができる。ちなみにこれはDSMでの名称で、いわゆる多重人格障害(ICDでの呼称)である。
もうひとつ。「身体完全同一性障害(BIID, Body Integrity Identity Disorder)」というのをご存知だろうか。DSMに載っているのを二つ挙げたので何かの精神疾患かと思えばそうではない。DSMに載せようという動きはあるらしいが、未だ正式な疾患としては認められていないのだ。

ではBIIDとは何か。「身体」の「完全」性に対する「同一性」の「障害」、つまり現在の自己の身体と理想の身体に対するイメージがずれている状態だ。いや誰も自分の容貌に満足してはいないだろうけれど(笑)、そういう「整形したい」「痩せたい」とかいう願望とは似て非なる―と僕は思うのだが―ものである。BIIDでは何を望むのか。自身の一部の切断なのだ。
例えば左足。例えば右前腕。例えば親指。彼らにはその部分が非常に余分に感じられ、もしくは漠然とした違和感を抱く。しかしどこをどのくらい切断したいかという願望は非常に具体的で、「右膝の10cm上から下を切断したい」といった具合である。その部分に病変など異常は全くない。完全に健康な器官だが、そんなことは関係なく、とにかく切断したいという強迫的な願望を抱く。
注意しておくべきは、性同一性障害の切断願望とは区別されるということ。GIDにおいて例えばMtFでは陰茎の切断、FtMでは乳房の切除を望む場合があるが、BIIDではなくあくまでGIDとされる。しかしBIIDとGIDは似た部分が多く、並べて論じられる事も少なくない。

BIIDでは多く幼少時からの切断願望・障害者への憧憬や嫉妬があるという。そして「作為性身体欠陥障害(Factitious Disability Disorder、1997)」では軽い方から順に<四肢切断者を熱愛し、彼らに対する性的興奮を覚える>→<松葉杖などを使って障害者のふりをする>→<自らの体の一部分を切断する>となる。蛇足までに、四肢切断者をAmputee、志願者をWannabe、愛好家をDevoteeと呼ぶそうだ。

また、最近の研究ではBIIDが神経疾患ではないかという推測が立てられている。BIIDは右頭頂葉の機能不全で起こるというのだ。患者が切断したがっている部位に触れても右頭頂葉に反応がないためである。とすると心因からではない(神経的な問題)し治療も可能になるかもしれない…などと考えられたりもするが、果たしてどうなるのだろうか。

ところでGID患者は、社会的に「正当に」扱われていないと感じたりして抑鬱状態となることが少なくない。そこから自殺企図が導かれるのは自明であろう。これがGIDのもたらす症状の中で最も危険なものだ。BIIDも同じように死の危険を孕む。
彼らは「四肢を切断したいと考えているのは世界で自分だけなのかも知れない」という孤立感、「人に打ち明けたらキチガイだと思われるのではないか」という不安から、ただ一人で黙々と悩み続ける事が多い。その結果どうしようもなく強迫観念に追い詰められ、危険極まりない自傷行為に出るのである。
実際にあった例を挙げよう。ドライアイスで自らの両足を6時間冷やし続ける。銃で自分の足を撃ち抜く。チェーンソーで脚を切断しようとする。…僕は比較的ヘヴィーな自傷者だけどもさすがにここまではしたことがない(汗)。ちなみにそのチェーンソーを使った男性は出血多量で死亡したそうである。
彼らの目的は、医者に四肢切断を「やむを得ず」選択させること。時に切断が必要ではなくしかし障害だけが残ってしまう場合もある。それより先のチェーンソーの事例のように、死に到る可能性が非常に高いのだ。

通常の自傷行為も、周囲はそれを見れば大慌てでまず行為自体をやめさせようと強引に行動してしまう。刃物に触れさせないだとか、常時監視下に置くだとか、しかし実際のところこういった措置に意味はない。むしろ逆に、本当の問題を悪化させてしまう恐れもある。
同じようにBIIDも、切断したいという彼らの欲望を表面的に抑え込もうとしたりするだけでは全く解決にはならない。「健常な」思考からすれば、健康な器官を切断したところで不自由しか残らないのに、と思うに違いない(じっさい彼らは訳あって四肢をなくした障害者たちの怒りを買っている)が、僕としては彼らの一人が語ったこんな言葉が印象的だ。「確かに足を切断することで、私はハンディキャップを負うことになりますし、苦労もするでしょう。しかし私は既にBIIDであり、それ自体がハンディキャップで苦しんでいるんです。つまり、どっちを取るかという問題に過ぎません」と。

それでも四肢切断手術に反対する者が多いのはなぜだろう。ここは全くもって不思議な論点で、たとえば性同一性障害者への性転換手術、自傷者の自傷、希死者の自殺など。性別がおかしいと思うなら性転換してもいいんじゃないのというのは受け入れられやすい。しかし手首を切りたいんなら切ってもいいんじゃないのとか、死にたいなら死ねばいいんじゃないのと真顔で語る事はどうにも否定されやすい。同じく、腕をちょん切りたいならそうすればいいじゃないというのには抵抗が大きいらしい。
個人的にはどれも別にいいんじゃないかと思うのだが(あれ、爆弾発言?)。別に僕が自傷者でとにもかくにも自由にアームカットしたいからという理由からではないよ。単純に、違法ではないし合理的だからとそう思うのである。現行(日本)刑法では自殺すら違法ではない。現状が苦しくて、しかし解決方法が目の前にありながら実行できないというのは辛い。というと「人としての一線」とかなんとかいう倫理の講義を垂れ始める御仁がいるが、そんな曖昧なものに揺らぐほどなら初めから何も考えたりしませんよと言って突き放しておけばよろしい。

常人には理解できませんねえと呟かれることの多いこの障害。しかし僕が見るに、「かっこよくなりたい」「かわいくなりたい」という凡人の願望と大して変わりはないのだ。理解できないのだろうか。理解してもらえないのだろうか。「あなたはオカシイ」で終了させてしまうのは簡単だろうが―他の病気も同じ事が言えるのだが―彼らをもっと追い詰めていくことになる。

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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