InAequabilitas

Date : 2010年02月

CURRENT MOON

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

行潦

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です
パスワード入力

幻影がわたくしを苛む。思考を侵略し、理性を掻き乱そうと騒ぐ。
わたくしが嗤っている。自らの頽廃を嘲笑っている。もはや立つ力すらない程痩せさらばえているというのに、それでも悪魔の肩に縋って歩いてくる。何故そんなに幸福そうに笑うのだ。
メフィスト!終に姿を現した。
幾年わたくしに語り掛け続けたか。書に見た通りの遍歴学生ではないか。

ああ、いや、それでもまだ契約を結ぶ気はないのだよ。しかしどうすれば良いものか。
お前以外の誰に縋ればいいというのだ。もうこの身には何をする力もない。
無様にくたばるしかないのならば、さてお前の言葉を思い返してみるべきか。

混ぜ書きなんか嫌いだ

ある時期から常用漢字とやらのせいで「漢仮名混ぜ書き」が氾濫し始めた。
新聞の見出しなら「○○の改ざん」だったり、テレビ画面には「う回路」とかあったりして非常に気持ち悪い。というかぱっと見れば意味不明である。せめてルビを振ってくれ、頼む。

それからもっと嫌いなのは「日外混ぜ書き」である。日本語であるはずの文中に突如英語やら何やらが出てくる。丸一文外国語に直してしまうのなら別に良いのだが(例えば「フロストは書いた。『If predestined to die late, make up your mind to die in state.』」とか)。また人物名や作品名(要は固有名詞か)を外国語にするのもよろしい。

しかし見てみれば摩訶不思議な文章が跋扈しているではないか。例をあげれば「リーズナブルなお値段にて今年一番のサプライズをお届けします!」とかいう奴。カタカナをばしばし使ったところでかっこよくも何ともない。
かの安倍元総理はカタカナ語大好き人間だったみたいだが、まああの演説の馬鹿らしいこと。そんなにカタカナが使いたかったら英語で喋ればいいのに。そうすれば(どうせ彼の発音では)全部カタカナだろう。

ポップソングにも多い。ノリ重視なのか韻重視なのか、意味不明の英単語を突如挟み込む。
試しにうたまっぷでランキング上位の歌詞を見てみたのだが…
「四季おりおりの景色もとめ二人でIt's going going on」「頭上広がる桃色はLike a ファンタジー」「すぐに会いたくてもう一度 oh baby ギュッとしてほしくて boy, miss you」「ちょっとセツナクなって oh no no」…
何ですか、これは。

日本語だけの部分でさえダサさに頭痛がするのに、こうして英語が入ってみると余計に気持ち悪さが倍増。なんとも不思議なのはルー大柴が喋れば周囲は笑うのに、こんな歌詞を感傷的に(多分)歌っている歌手を誰も笑わない事である。

逆を考えてみないか。筋肉質な腕に「勉強」と漢字を刺青したNBAの選手はおそらく失笑を買う。のぼりに「をたく」と大きく書いて嬉しそうに振る外国のコスプレイヤーもネタにされよう。海外の土産物屋に行って何だかわからない漢字の羅列を印刷したライターなんかを売っていたらややぎょっとする。
それと同じことをやっているんだよ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へにほんブログ村 哲学・思想ブログへ

死と芸術

selfportraitwiththedeath
Arnold Böcklin 《Self Portrait with the Death》

ベルリン美術館の所蔵だが、ウィーンの美術館横の本屋で本を漁っていて見つけた絵。まさに一目惚れだ。
日本での題名を調べてみたら「ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像」というらしい。

死がG弦のみを張ったバイオリンを奏で、画家は絵筆を持つ手を一瞬止めてそれに耳を傾けている。死は画家の背後で嗤う。画家はキャンバスに刹那を捉える。
画家の手元、骸骨の表情、いや画家の表情もみな好きだ。「好き」どころではないような気も。

テーマは死だけではないはずだ。なぜ死は鎌を持たずバイオリンを携えているのか。死と芸術が出会う絵だからか。
ムンクも芸術と死を結びつける言葉を残している。死と芸術はどこか繋ぎ合う場所がある。
この画面に描かれた死神は死神だけではない。芸術と死をつかさどる神なのだろう。

死を抽象的に描いた絵は表面的には醜いかもしれないが、美しい。死を描写した音楽も、詩もそうだ。しかし死を具体的に描いた絵、撮影したドキュメンタリや解剖学論文はどうか。やはり現実的で酷い(死を直視したくない、という者どもの気分も解ってくる気がする)。
具体的な死は醜いが、抽象的な死は美しい。この差はどこから顕れるのだろう。

死を美しく変えさせられるのは芸術だ。ならば死をそこまで美しくさせられる精神は一体何なのか。
死のもたらす安息か。

悲惨哉

帰ってきました。
予約投稿でぼかぼか投稿されてるもんだからとっくに帰ってきましたよ、みたいなふりをしていたが実はさっき帰ったばかりである。いや、数時間前。そのままぶっ倒れて寝てしまった。

ホテルのロビーにあるPC(ネットが無料)で繋げてみたところ、まあ繋がるんだが重要なことを忘れていた。文字化けという罠
日本語は全て白四角で表示されていた。

ウィーンとかザルツブルクとか偉い(?)ところも行ったが、大半はオーストリア西端の極小都市に滞在。父親の仕事の手伝いに来てるからなのだが。電車でちょっと行くとドイツに行っちまったり、バスでちょっと行くとリヒテンシュタインに着いてしまうようなところだ。うっかり迷おうものならスイス国境を越えてしまう。
プロカメラ(Canon5D)を扱えるのが僕しかおらず、その上通訳にも兼用されていた僕は当然変な時に呼び出されてしまう可能性が高い。と、危惧は現実になるわけだ。

ホテルでうたうたしていると突如電話がかかってきて「今すぐこっちに来い」という。すぐといっても特急に乗って30分かかる場所だし、そもそも駅に行っていきなり特急に乗れるかもわからない。時間は5時半くらいであった。外は薄暗い。
ボロドイツ語で切符を買って(よくも買えたもんだが)プラットホームに急ぐとちょうど各駅停車に逃げられ、ぼやっと25分間極寒のホームで次発を待つ。
着いてみると「駅に迎えに行く」と行っていたはずが誰もいない。まあすぐに行けと言っていたのだから歩いていってやれ、と片道15分を滑りそうになりながら雪の中を行く。
場所はこれまた極小で極寒の教会。13世紀に建てられたものらしくいろいろ凄い事は凄いが、半ば廃墟である。
ところが行ってみると…人がいない
真面目にあの電話は幻覚だったんではないかと思いながらとぼとぼと駅に(もちろん歩いて)帰ると、迎えが「来たー!わーい!」とかいうノリで大喜びしている。「もうとっくに着いてたんだよ、このバカ者なんで教会に誰もいないんだ!」と責めてみると、ほわーっとした顔で「ごめん、まじごめん」と謝られる。肩の力が抜ける。

ただでさえ閉店時間の早いオーストリア(ウィーンでも18:30くらい)だから、こんな小さいところだと四時ぐらいにはみんな閉まってしまう。なのでそれからまた仕事(写真撮影)というのは彼らにとってはとんでもない長時間労働であったらしい。横で「お腹すいた、帰ろう」と呟き続けている。年齢は40を超えている大人だが。
次の日の予定について彼が言う。「明日中には絶対に終らせなきゃいけないからな、何としても10時までには来い!」
それ、「何としても」っていう時間じゃない。

因みにザルツブルクのホテルは隣が教会(今も使われている)だった。まあいいもんじゃないかとぼんやりしていると気付く。
夜中まで鐘の音に叩き起こされるという悲劇。それに窓を開けてみるとそこは墓場であった。十字架まみれ。

あともう一つ。父親がアーティストだから自然と知り合いもアーティストばかりになる。そうすると周りが変人だらけ。「この地区一番の変人」に好かれてしまったり、とにかく僕は変人度が高い人間にほど好かれてしまうという法則を発見してしまった。

いや、そんな悲惨だったからさんざんだったと言いたいのではなくて、悲惨だったけど良かった(というかウィーン住みたい)という逆説。

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
Detail/本棚

Latest Articles

Comments

Trackbacks

Link

Categories

Search

 

Counter

Current Visitors:

Archives

Mail Form

Name:
Mail:
Subject:

Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。