InAequabilitas

Date : 2009年10月

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死への姿勢

この世には死への姿勢に関して3種類の人間がいるようだ。
1, 死について考えたこともない。
2, 考えたが、自分にはあまり関係ないと思っている(危機感がない)。
3, 自分は明日にでも死ぬと思っている。

1は当然ガキに多い。大人でもいないこともないが。
2は最も愚かである。彼らにとって死とは、ニュースと小説の中に登場する何かでしかない。死は考える必要もない遠い未来に訪れるものだと思っている。元気に生きている自分が、今この瞬間に死ぬかもしれないということを認めようとはしない。
「僕は明日死ぬ」、と言ったとき真っ先に否定的になるのは彼らである。しかし果たしてこれは完全な消極を意味するのだろうか。

ファイフェルの言葉を繰り返しておく。
「死が老人だけに訪れるというのは間違いだ。死は初めからそこにいる」

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高校受験の思い出

あれは凄まじかった。

中学(日本の中高一貫校)を卒業後、突如外国に飛ばされる。日本は3月終わりで4月始まりだが、そういう国は少ない。僕の留学先は9月始まりだった。だからかっきり半年間のブランクがあったわけだ。
そのうち何故か受験できる学校が2-3校しかないことを告げられ(おまけに入試を申し込んだのは1校のみ)、過去問も手に入らぬまま手当たり次第に復習を始める。その期間の親の口癖。
「あんた、あの学校受かんないとニートになるよ!」
脅しでもなく現実がそうなのであった。
突如として現実味を帯びる「ニート」という単語に焦燥を感じつつ、なんとか受験日時を忘れずに行くことができた。結果?ちゃんと受かったんだぜ。意外だろ。
因みにこのブランク期間に気付いたら文系人間が理系人間になっていた。

ところで中学受験はいわゆる受験戦争を切り抜けてきた人。
そうなのだ…「成績ねえ。全体としては問題ないんだけど算数がちょっと頂けませんねえ。」とおっとりした理科の教師(塾)に言われたのも、他ならぬこの僕であった。
しかも時期は6年生の11月末。入試本番(2月)は目と鼻の先に控えている。過去問もろくに解いていなかった(宿題で出ていたのすらまともにやっていなかったのだから)。さて改めて焦る。
結果?ちゃんと第一志望受かったんだぜ。もっと意外だろ。

さらに遡れば小学受験。あの頃は日本語がまだ下手糞で、何を言われたのかすら判っていなかった記憶がある。横浜国立大付を受けたがちゃんと落ちた。そして入ったのが東条英機の出身校だったというわけである。

距離

僕はなるべく人と「出会い」たくない。彼らが僕を幻滅させるからだ。
例えば僕は(一方的に)中島義道氏に救われたと思ったり、姜尚中氏に慰められたと思ったりするのだが、どちらにも出会ったことはないし、出会いたくもない。出会わないうちは僕の「良い」表象としての彼らでしかないが、知ってしまえば全ては汚辱の表象としての世界の中に墜ちてしまう。
「俺が思うには、身近な者ほど愛するのは不可能なのであって、愛し得るのは遠い者だけだ」。
『カラマーゾフの兄弟』中のイヴァンの台詞。頷かざるを得ない。
誰もが無形の剃刀を振り回している。遠いところにいる者には当然その刃は触れない。最も傷を負わせているのは、隣にいて「一番大事」もしくは「最も親しい」と錯覚している対象に他ならないのだ。
この剃刀の存在に気付いている人間にとっては、遠い者しか愛し得ない。

近い者同士ほど互いの皮膚を切り裂き合い、にも関わらず自分は全くの健康体である、と思わせ合ってニコニコしている。何という欺瞞!
それだからいつか互いに、密かに一方的に恨み始めるのだ。我慢が頂点に達すれば、まあ下手すれば殺されるかも判らない。

僕は批判には長く傷つかない。ほとんどは何とも思わないのだが、全く事実に反した批判なんかをされればそれは当然傷つく(笑)。だがそれも長くはない。
意図して僕を攻撃する言葉にもあまり恨みは覚えない。相手には自覚があるからだ。
僕が真に傷付くのは「綺麗事」と「優しい言葉」だ。それらは僕にとってレイアーティーズの毒剣のように感じられるのだが、彼らはまるきり無自覚である。
そう、自覚のない言葉が最も恐ろしいのだ。その上彼らは「良い(または正しい)事をした」「慰めた」と確信して憚らないのだから尚更始末が悪い。
無害そうな言葉の後ろに隠したつもりの「好奇」が透けて見えているのだよ、愚鈍な諸君。見えていないとでも思ったか。その劇毒に気付かないとでも思ったか。

もっとも屈辱的なのは理解されないことではない。好奇と嘲笑を向けられることである。
AはBではないのだから、誰も互いに理解し合えることはない。多分一人の人間が地球だとしたら、他人の理解が届く範囲は多く見積もって大気圏のみくらいであろう。
心理学における、有名な「ジョハリの窓」を思い出して欲しい。とすると言うなれば大気圏は開放領域だ。内核(未知領域)くらいになると、もう自分でも他人でも気付けない。
自分でさえ自分を完全に解ることはないのだから、「あなたのことは完全に理解できる」と神妙な顔で頷く人間は単なる阿呆である。

不理解は表層に引っ掻き傷をつけるか全く何もしないかだけだが、好奇と嘲笑はニュートリノのように、核までも届いてそれ自体は何事もなかったかのように貫通していく。僅かなチェレンコフ光だけがそれらが貫通していった事を告げる。だが何もできない。「幾ら言葉を投げ返しても、貴様を掠めるだけで擦り傷ひとつつけないのは知れている」(『リア王』)。
ただここに蹲ってそれに耐え続けるしかないのか。

怒鳴ってくれれば、殴ってくれればどんなに良かったか。それでも僕は語る事を放棄していたには違いないだろうが、少なくともこの相剋に身を抉られることもなかったはずだったのに。

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つるみと自己実現

近頃、佐世保の小学生の殺人事件からやっと問題視されるようになり始めた事なのだが、こう叫ぶ少女たちがいる。
「あいつなんか友達じゃない。付き合うのだって苦しかった」
彼女らが憎々しげに語る『あいつ』なる人物は大抵、周りがその彼女と最も親しい友人であると思い込んでいた人物である。だから世間はあっと驚くわけだが。
彼女らは何とも不思議で、人とつるんでいなければ死ぬほど不安らしいのだ。
知人の娘で現在小6だか中1だかの子がいるのだが、知人が言うには「帰るのが遅い」。別に外で遊びほうけているとかいう話なのではない。彼女は自分のクラブ活動がない日であっても、友人のそれが終るまでずっと待っているのだという。
確かに僕も小学校の頃、「一緒に帰る人がいない」と不安そうな顔をした女子を山のように見た。あれはガキだからそうなのだと思っていたが、どうも違うようである。

トイレで昼食をとる女子大学生・社員が問題になることがある。彼女らは「一緒に食べる人がいない」という事がなんと恥ずかしいそうなのだ。人それぞれの感性があるのだから決して笑いはしないが、少なくとも僕にとって理解は不可能である(まあ彼女たちにとっては、絶対に一人でしか食事をしたくないという僕が理解不能なのだろうが)。
同じように理解できないものとして、女に限ったことでもないが「連れション」なる行為がある。個室に区切られているトイレでさえ、一人で行くのは躊躇われるのか。
物理的な距離が短くなくても、もっと手近に「繋がる」手段として携帯電話が存在する(だから僕はケータイだって嫌いだ)。「ケータイがなかったら死ぬ」と語るド派手な女子高生たちを見ていると、この類の問題をすぐに「現代の病理」という便利でありきたりな言葉に置き換えたがる数々のエッセイストの顔が浮かぶ。
ここまでして「つるんで」いたい心理とは何なのだろうか。

流行とつるみとの関係も密接である。
流行に乗り遅れまいと焦る人々。戦時中の標語「バスに乗り遅れるな」を思い出す。
「風邪の流行には乗りたくないんだな」とかいう古い皮肉を投げつける気もないが、何よりも皮肉なのは流行の只中にいる人々ほど「自分らしさ」に拘っているという事実だ。
高校の経済の教諭が言った印象的な言葉がある。
近頃の女の子ときたら、個性を手に入れようとして流行を追っている」。
流行とは、いわばその時点での多数派である。個性は1つなのだから明らかな少数派だ。
タウンページのCMだった気がするのだが(古着屋のやつ)、そこに出ていた女は自分の服を古着屋に売りたい理由をこう語った。
「街でこれとおんなじの着てるコがいたんで、着られなくなっちゃったんです」
当然その上着は大量生産されている商品で、同じものを着ている人間がいないことを保証するのは完全に不可能である。

流行に乗るという行為は、多数派のなかに身を置くということだ。同じくつるむという行為も多数の中に自分を置くこと。
しかし、それでいて「埋もれて」いたくはない。個でありながら、多の一員であろうとする。
いわゆる「グループ」化したあらゆる年代層のほとんどの女は、グループに属さなければ不安で仕方ないが、グループの中では特別でありたいと願う。ただそのグループの中にいるだけの人という立場でもまた落ち着かないのだ。
一人になるのは怖い。だが、それでも誰かの「特別」でありたい。
自信のなさに悩みながらも、自信を獲得し肯定してもらおうと足掻く人間の姿が浮かび上がる。

多数のときはかなり強気だが、いざ一人で何かを、というときになると途端に自信を喪失し弱気になる人間を多く見た。
もし足場がぐらついたときに立て直してくれる援助者がいなければ、何かをするのは恐ろしいのだ。
自分の意見に頷いてくれる賛同者がいなければ、何かを言うのは恐ろしいのだ。
自ら深く考えて、これが正しいと確信できる思想もない。彼(女)らの態度は臆病と怠慢そのものだが、自覚していないか押し隠しているかのどちらかである。
果たして多数に服従しているままで自信は得られるのか。「あんまり同意できないな」と思いながらもその思想を口にすることでは個性は獲得できないのではないか。
少数になることを恐れずにそのなかに身を投じてこそ、自分自身であることができるはずだ。

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反物質自殺

今でこそ有名にはなったが、物質に対して反物質というものがある。
電荷も質量もみな絶対値が同じだが、電荷の符号が逆。物質とこれらの反物質は対創生される。
つまり、エネルギーが物質に変換されるとき、同量だけの物質と反物質が生成されるわけである。

ところがなぜか物質世界が勝っている…これはケーオンのせい(これの中性成分が崩壊するときに物質のほうが若干多めに生成されるらしい)とニュートリノにおけるパリティ非保存のせいだそうだが、まあ置いておこう。

ところで物質と反物質が出会うと直ちにエネルギーに変換されてしまう。
で、このエネルギーはかの有名な「E = mc2」によって求められるわけだが…これも置いておこう。

僕が考えていたのは全くそんな高尚なことではなく、「反物質を使って自殺できるか」という半ばSF的な話。
反物質からなる僕が物質の僕と握手でもすると…対消滅が起こり、僕「たち」はγ線となってどこやらに飛んでいくわけだ。
ところでその時のエネルギーを計算してみたのだが、実に約5.4×1018。なんか凄く感動的である。

そしてもう一つの方法は、事象の地平線を乗り越えて特異点に辿り着くという手段。
これはブラックホールの話で、事象の地平線は又の名をシュヴァルツシルト半径といい、重力の中心に向かって落ちていく物体の速度が光速を越えてしまう位置のことだ。光速をも越えてしまうということは、最速(であるはず)の光でさえ脱出できなくなることを意味する。

特異点は、要は「底」である。だが時折それが点ではなく、リング状になっていることがある(と予想されている)。これは特異点リングとよばれ、ここを抜けると「全てを呑み込む」ブラックホールに対する、「全てを吐き出す」ホワイトホールとなる。これを合わせてワームホールというが…まあよい。

リングを抜ければ別の宇宙であるとか言われているが、その前に物質は素粒子レベルまで分解されてしまうだろう。そして出てきた頃には素粒子の群れか何か得体の知れない物質となっているだろう。
では僕が特異点まで辿り着いたとすると、つまり僕は素粒子か、大きくても原子レベルまでに分解されるはずである。当然だがこれは既に人間ではない。

理論的にはどちらも可能な方法ではないか!
但し最大の問題は、現実的に(予算的に?)不可能な方法だということ。僕は泣きたい。

ところで対消滅してγ線になる僕は、素粒子にまで分解される僕は、何を感じるのだろう。
痛みか。無感覚か。死に際してさえ、単なる物理への驚嘆でしかなさそうでもあるが。

Irony, Satire and Truth

Biography

北落師門

Author:北落師門
特徴: 研究者気質(何)、厭世家、人嫌い、典型的ブックワーム。
大量の学問だけで出来ていると思う。詭弁と皮肉で武装している。
目の悪さが半端ない。あと、電話と食事と世間話が天敵。
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