InAequabilitas

Category : 随想批判

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箱の中の甲虫

死期が近づいてくる足音を聞いている.もうあと1週間もしないで自殺!あまりにも楽しみで,こんなに何かが楽しみなのは久しぶりなくらいだ.すべきことにも集中できず,四六時中自殺のことばかり考えてしまう.思わず笑みがこぼれる.やっと人生から解放される.ああ,楽しい!
以前カフェインを3gODしたときの凄まじい苦痛を思い出している.想像を絶する嘔気,胃を抉られるような痛み.今回の予定量はその5倍超だからなあ,苦痛にのたうち回るのではないだろうか?醜い死,死に場所も決して美しくなどない.けれどそれが僕の紡いできた人生に相応しい.
深い虚無感,暗い自己否定,どうにもならない不信感.「気の持ちようで変わるよ!」といった言葉は飽きるほど投げつけられてきた.お気楽に生きることができてとっても素敵ですね,としか思わない.僕は人格が歪んでいるので,「気」をそのように持てない脳の構造になっています.すみませんでしたー.
親から毎日殴られることもなく,壮絶ないじめを受けることもなく,それなのに今,死だけを希望とする人間に育ちました.出来損ないでほんとうに申し訳ありません.
いじめられなかったわけではないが,クラス全員に無視されたような経験もなければ大金を巻き上げられたこともなく,(身体的に)屈辱的な仕打ちを受けた経験もない.よく聞くいじめ自殺の原因となったいじめに比べたら,全く大したことはないものだ.いじめが原因で死のうと思ったこともない.
はじめは小学校中学年時に,運動神経がないことが原因で数人からいじめられた.同じリレーのグループの子供たちで,僕が原因でリレーで勝つことができないからというのであった.身体的特徴を揶揄されたり,蹴られたり,「死ね」等のベタな罵りを受けたくらいで,影響はといえば未だに自分の外見を忌み嫌っているくらいのものである.ただ,蹴られ続けるのに耐えられずに蹴り返したら,担任が「君も蹴ったんだからおあいこでしょ」というようなことを言ったのは,少し引っかかっている.
次は小学校高学年のときだが,このとき母国と日本の関係が悪化していた.それまで僕は特に民族的アイデンティティ的なものを強く意識したことはなかったのだけれど,たとえ日本生まれの日本育ちであり母語が日本語であっても,周りはガイジンとして扱う.それを強く意識させられた.同級生も,担任も,「国に帰れよ」と叫んでいた.その頃僕は母国語があまり上手でなく,母国に帰ると言葉の壁を感じていたし,少なくとも自分は「日本寄り」なんだと思っていた.いじめられて,僕を受け入れていたはずのコミュニティが唐突に僕を突き放すという現実を見るわけだが,「ああ,そもそも僕は受け入れられたことなど一度もなかったんだな」と思った.勝手に受け入れられたつもりになっていただけで.そして僕は母国に対して愛国主義的になった.だがその後数年かけて,いくら国籍がそこであろうと,愛国主義者であろうと,母国というコミュニティも僕をメンバーとして受け入れることはないことを知る.
帰化した政治家に,自国に対する愛国心を執拗に確認する右翼がいる.くだらないですね.いくら愛国心を誓っても,母国の国籍を捨てたとしても,どうせ受け入れられるはずはないのだ.帰化しないほうがまだましかもしれない.少なくとも母国のコミュニティには所属できる可能性がある.コミュニティに受け入れられようと媚びたところで,お前は結局蚊帳の外.誹謗はされなくなるかもしれないが,そのコミュニティの「自然な」一員となることは,絶対にありえないのだ.
親は僕が中学でいじめられたと思い込んでいるのだが,中学は友達もそれなりにいたし,自傷等の問題行動(自傷自体は物心ついたときからやっていたが,刃物自傷が顕在化したのは中学である)で教師とあまりうまくいっていなかったくらいしか摩擦要素がない.同級生と恋愛したことで,相手と引き離したい親が(エスカレーター式で高校に上がれるところを)中学卒業後に母国に強引に連れていったというのが事実なのであるが,親は「中学でいじめを受けたので母国に帰った」と吹聴して回る.まあその方が見栄えも良く,ほんとうらしく見える.主治医にも親がそう話したらしく,自立支援の診断書には「中学時代いじめを受け(母国)へ転居」と書いてある.僕も僕がほんとうだと思っていることを主治医に話したはずなのだが,まあ一番大きい声でほんとうらしそうなことを語るやつの言い分だけが真実だと認められますからね.仕方ないですね.
親はよく自分の記憶を書き換えているので,ほんとうにそうだと信じ込んでいるのかもしれない.むしろ他の例を見ると,書き換えた後の記憶をほんとうだと心から信じている節がある.あまりにも強固に書き換えた記憶を信じているので,僕の方がたまに自信を失いかける.では僕の記憶が正しいという保証は?統合失調症からくる妄想ではないのか?
統合失調症の診断を受けている僕と精神科に世話になったこともない親を並べたら,100人中100人が親の言い分を信じるであろう.だって僕ですら僕の言い分を信じきれずにいる.それを自覚したからもういちいち訂正して回るようなことはしない.「ほんとうのことなどない,ほんとうらしいことがあるだけだ」.僕は黙って僕の「ほんとう」を殺していく.僕の語る言葉を真に受けると損しますよ.どうでもいいから,早急に,自殺させてくれ.
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二日酔い

人生はクソゲーだというのは,どんなに同意しても同意しきれない主張である.かといってつまらないかというと,まあまあ面白みはある.イージーモード(に見える)ひとがたくさんいる中でハードモードな自分を見て,なんてクソゲーだ,と言っている節はあるだろう.それに一般的に言えばハッピーなイベントよりもそうでないことの方が起こりがちであり,当たりのなかなか出ないパチンコのような(パチンコをやったことがないので適切な比喩かはわからない)「クソゲー」感がある.よくよく考えたら,ゲーム自体あまりした経験がないのでひとが「クソゲー」と言う場合どんな気持ちを込めているのかもわからなかった.専門外の比喩はやめましょうね.
人生の何がそんなに嫌なのか,端的に言えば「生きるのがうまくないので人生自体が嫌い」というところに集約されるような気がしている.要するに「生きる才能がない」.プログラミングの才能がないひとが頑張ってプログラミングを勉強しようとしても,才能がなくて概念を理解できず,自分でコードを書くことができないから嫌になるのと本質的には似ている.もちろんこれは僕に限って正しい話であろう.嫌な出来事が続いて人生が嫌になるひともいるだろうし,毎日同じことの繰り返しばかりで人生に飽きてしまったひともいるはずである.人生が嫌になったわけではないけど自殺を選ぶひともきっと大勢いる.でも僕の場合を考えたら,嫌な出来事が取り除かれたって僕は人生やめたいし,毎日は変化があって別に単調ではない.いま対症療法を施されても,「今後生きなければならない」という条件が途轍もない拒否感を喚起する.
誰もが,夢を見ている.どんなに普通のひとも,どんなに優秀な医師も,みんな一種の夢の中で生きている.僕が見ているのは悪夢には違いないのだろうが,「治療」を受けてその夢を見なくなったとしても,麻酔薬か睡眠薬を打たれて別の夢を見せられるだけの話なのだ.新たな夢が悪夢ではないことなど,誰にも保証できない.
「生きるのをうまくする」ためには,きっと表層だけをなぞることが重要だ.ひとの言動の裏を読もうとすると,コミュニケーションがしづらくなる.ひとの言動は基本額面通り受け取り,ある程度「わかりやすい裏」を読めば,それだけで円滑なコミュニケーションは成立する.「裏の裏」を読もうとすればぎこちなくなってしまう.読んだ「裏の裏」が正しかったかどうかなんて,どうせわかるわけないのだから.
世界を,生活を,ほとんどは疑問を持たずに額面通り受け入れればいい.少し面倒な疑問が首をもたげるときは,「わかりやすい裏」だけ読めばいい.賢しそうなふりをして「裏の裏」を読もうとしたって,答えなどどこにもあるわけないのだ.これでいいのか,あれで合っているのかといちいち不安になってしまう.そんな不安にとらわれて立ち止まってばかりでは,なめらかに生きられない.
全部額面通りに受け取るひと,ある程度の裏を読んですんなりとことをこなすひと,裏を読みすぎて何もできなくなるひとの3種類の人間がいる.裏を読むタイプのひとに「気にするな,相手はそういう意味で言ったんじゃない,考えすぎだ」とアドバイスしたとしても,そうですねといってすぐ裏を読む癖を直すだろうか.それは一種の習慣であり,生活スタイルのようなものである.もはや本人の意思では変化させようがない.生活に,思考に,あまりにも自然に染み付いてしまっているからだ.本人は裏を読む癖をやめたいと思っているかもしれない.だが,一度裏を読む癖がついたら,読まずにいることは非常に困難である.しかもすんなりことをこなすには,ある程度は読まなければならないときた.いつもいつも深読みしてしまうひとは,ある程度ってどのくらいなんだろうと悩むであろう.どのくらいかわかったとしても,ある種の化学反応が途中の段階で止めることができないように,深読みの谷へと転がり落ちていってしまうのは想像に難くない.要するに,深読みを始めたら円滑で双方にとって快適なコミュニケーションは諦めるしかないのである.
生存も同じこと.世界の「裏の裏を読む」癖がついてしまったら,今更読むなというのは単なるきれいごとなのだ.読まない,それができれば話は簡単なんですよ.問題は不可逆的に読んでしまうことなんですよ.
「深読みする癖」のあるひとは「生存がうまくない」.生存の才能とは,すべてを額面通りに受け取りつつ適切なところで少しだけ裏を読む能力である.死にたいひとがみな「生存の才能」がないわけではない.目下道を塞いでいる問題を取り除きさえすれば,なめらかに生きていけるひとは多い.問題とは,たとえば病気であり,たとえば成績不振であり,たとえば恋人がなかなかできないことである.生きる才能がちゃんとあるのなら,生きないのはもったいないし,たぶん本人も問題さえ消え去れば生きていたいのではないだろうか.その問題が解決不能に思えるから,もう前に進めないと思ってしまうのである.もちろんほんとうに解決不能な問題もあるだろうが,それは本人に生きる才能がないことを意味しない.
それなのに僕ときたら,生きる才能が絶望的に失われている.そのうえ,人生に対してなんの執着もない.とすると,人生を終了するしかないですねえ.アセトアルデヒド脱水素酵素が少しでもあるひとは,酒を飲む練習をすれば飲めるようになる.けれど全くないひとは,いくら飲もうが身体が絶対に受け付けないし,命の危険を伴う.酒を飲むことは完全に諦めなければならない.僕はさっぱりと生存を諦めました.どんなに周りが「美味しいぞ」としつこく勧めてこようとも,飲めないものは飲めません.だからもう,僕に生存を勧めるのはやめろ.全て無駄足に終わるだけだ.

低体温症

みんな,なぜこんな無意味な人生に,無意味な世界に,平然とした顔をしていられるのだろう.それどころか豊かな「意味」を見出し,充実した人生を生きているらしい.全ては無意味だと,疑ったことはないのだろうか.疑ったとしてもその疑念はすぐに「思い過ごしだ」と破棄されるのだろうか.それが思い過ごしだと思えないとき,世界は暗転する.
「意味なんかなくたっていい,生きていればそれでいい」とはよく聞く言葉であるが,なぜそこまで生は肯定されているのだろう.「意味なんかなくてもいい」ひとびとだって,目先の楽しみに刹那的な意味を見出して日々生きているのではないか.たとえばあのアニメの二期がやるからだとか,なんとかの新作が出るまでは死ねないとか,それはよくある主張であり,それはそれでいいと思う.ちっぽけな意味(だと思っているの)だとしても,意味は意味だ.それが自分にとって重要なら,誰がなんと言おうとそれは重要なのだ.
買い物欲を抑えるために,ノートに買いたいものを書き出してこうこうこういう理由から今は買わない,という決断をしていたひとが,最終的に「なくても死なない」という理由に全て落ち込んでしまい,何も買わなくていいような気がしてきた,という話を見たことがある.「なくても死なない」と言い出したら,贅沢品は何も買えなくなる.けれど何も買わない,無駄遣いの楽しみを放棄するというのは,人生を痩せ細らせる.確かに決定は合理的であり,理由も何も間違ってはいない.しかしそれは氷の城に住むことに等しく,つるつるとした床は滑ってしまい前に進むことができない.まさに,生きるには「ざらざらした大地に戻」らなくてはならないのである.
ほんとうに,何にも意味がないんだと信じることは,全て理想的条件下の数値を用いて理論を構築することに似ている.確かに,それはひとつの正しい解なのかもしれない.しかし現実には空気抵抗があり,分子間相互作用があり,非線形の温度依存性があったりする.それらを考慮しなければ,現実の問題は解けない.
けれどもその理論は間違っているというべきか?理想的条件によって導かれた理論も,現象を記述する「正しい」理論に間違いはないのだ.極北は,誰もそこへ行きたがらない極寒の地であるかもしれない.それでも極北もまた確かに存在する場所だということに違いはない.だが,理論には実験が必要である.多少美しくない式が出てきても,実験による経験則のほうが現象をうまく説明することもある.
それは重々承知している.それなのに,僕はこの理詰めの氷の城から抜け出すことができない.抜け出すために前に進もうとも,摩擦がないから扉に辿り着くこともできない.僕に見えているのは,氷の床と氷の壁と氷の尖塔だけだ.それが僕の世界の全てなのだ.
「ざらざらした大地に戻」れば生きられるのかもしれない.みんなはそこで健やかに歩みを進めている.けれど僕は自らが築き上げた氷の城を破壊する気はないし,一歩抜ければ「ざらざらした大地」が広がっているとも思えない.きっとここは極北の地,城の外も果てしなく氷が覆い尽くしているだろう.草木が生い茂り暖かな太陽が照らす大地は,あまりにも遠すぎる.

機械語の夢

そうだ, 最後に折れるのはいつだって僕なんだ. 選択をするたび, 重ね合わせだった僕は「都合のいいひと」に収束していく. そのようにして僕は死んできた. もしかしたらマルチバースでは「いいひと」でない僕が好き勝手に生きているのかもしれない. けれどすくなくとも僕がいま観測しているこの宇宙では, 僕は主張を殺し, 一人で死んでいく.
僕が主張を殺さざるを得なかったのは, ひとえに僕が声を上げ続ける強さを持てなかったからであり, 他人に理解してもらおうという努力を放棄したからである. あいつのせいだ, お前のせいだと誰かを非難していたこともあったが, 僕自身の問題だった. 誰かを非難することは簡単だ. 全てを敵のせいにして, 自分は何もしなくてすむ.
人間はひとの人生を勝手に解釈してあれこれ評論するのがほんとうに好きである. どうせひとは自分の信じたいものしか信じないし, 自分の好きな文脈でしか解釈できない. 馬鹿みたいな解釈しかできないのなら, 他人の人生に首なんて突っ込まなければいいのに. しかしゴシップネタは絶えず供給・消費され, みな暇になればワイドショーを眺めている. 政治家は金の問題を起こすより, 不倫でもしたほうが非難を受ける. みんな, 暇なんだなあ.
人間!人間が多すぎて耐えられない!みんなペッパーになってほしい!僕も早くAIになりたい!
「血の通ったあたたかみ」など不必要だった. 「人間らしさ」は論理の邪魔でしかない. 感情はどうしても起伏を持ってしまう, それが嫌だ. 心静止のEKG並みに真っ直ぐになってほしい. 感情を丸出しにして僕に近づいてくる人間, みんな気持ち悪い. こっちに, 来るな. こっちを, 見るな.
目が覚めたら目の前はブルースクリーンで, どこからともなく「深刻なエラーが発生しました」という声が聞こえてくるのではないか, そう期待しながら眠りにつく日々.
去年の秋に処方薬を数百錠ODして数日後に病院で目が覚めたときから, 実は僕はもう植物状態で, 知覚するものは全て僕の脳幹が作り出した夢ではないだろうかと本気で考えたこともあった. けれど「VR仮説」には何点か反証が見つかり, 仮説は棄却された. 神のような高次の存在を仮定しない限り, この世界がVRであるというのはどうやら間違っているようだ. 水槽の脳だって, 脳を電線に繋ぎ電気信号を操作する「高次の存在」がなくてはいけない. でも僕は無神論者だから, 高次の存在を否定する. もちろん「信じたくないから」以外に理由はない. けれどどうせみんな信じたいことしか信じないし, 信じられないのだ.
仮に世界が全てVRなら, クソVRにも程があるな. 設計者の胸ぐらを掴んでクレームをつけたい.
脳科学や認識論では, 脳をコンピュータに喩えるのとコンピュータを脳に喩えるのが交互に流行るらしい. 喩えでなくてほんとうに脳がコンピュータだったら, どんなによかったか. 感情もプログラムだと割り切れたなら. それだけが願いだった.

学習性無力感

インヴェガ, リスパダール, エビリファイ, セロクエル, ジプレキサ, ロナセン, コントミン, もっともっとたくさんの, 数え切れないほどの薬. 薬を飲んで変わったことならある. 少なくとも幻聴はなくなった. しかし僕は変わったか. なんにも, なんにも変わっていなかった.
僕の思考は執拗に合理性を希求し, 希死念慮は一日たりとも僕を離さずにいた. 通奏低音として虚無感があり, それを抑鬱や劣等感などが伴奏として彩り, 主旋律として希死念慮が響き渡り続けた. 長い長い交響曲. 聴いているのは僕ひとり.
浮き沈みがあって, 「沈んでいる」時にだけ「症状」が出ると思っていたでしょう. いいことを教えてあげましょうね. 僕は, 常に, 暗い雨に打たれていたのです.
そんなことをした程度で希死念慮が僕を見捨てると思ったら, それはお気楽すぎ. それで気が済むなら勝手にやればいい. そう思いたいなら, 一生そう思っていればいい.
誰もが僕を, 彼らの理解できる範囲に押し込んで「理解」しようとする. 僕も諦めているから, 表層的なことしか語らないか語ることを拒否する. そしてますます誤解が生まれる. 理解しようとしなくていいから誤解はするなと主張していたが, もうどうでもいい. そんなに他人の人生を解釈するのが好きなら, 勝手にどうぞ.
僕は僕にとって真実だと思うことを, 必死に伝えようとした. けれどどこにも絶対的に本当のことなどなかった. 結局一番大きな声でほんとうらしく見えることを語るやつの言い分だけが「真実」として受け入れられる. 声を上げたって無駄だと知った. 僕の言葉は無力で軽い. 誰も僕の思考を真面目に受け止めようとなどしない. 語ることを放棄した. 聞かれれば答えるが, 「わかりやすい」ことだけを言うようにしている. 嘘はつかないのだけれど.
僕が耐えれば世界は潤滑に回っていく. 誰も真実など求めていない. 気楽に生存していくための, エンターテインメントと癒しだけが求められている. 日常をメスで切開しようとする僕は厄介なだけなのだ. それを重々承知しているから, 僕はもう何も言わない.
世界は地球のように表面に立っていれば硬くしっかりと脚を支えてくれるし, 表層をなぞればその形ははっきりとしている. しかし深く抉ろうとすれば内側は謎に満ちて流れを持っている. 「これが正しい」と思っても流れに流されて考えたのとは違う場所に行き着いているかもしれない. 自分を失うこともある.

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北落師門

Author:北落師門
死に至るまでのしばらくだけ,文章を書き散らすための場所

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